ワルキューレの微笑 ~ある地球環境学者の鎌倉日記~ 作:古屋 力

マーク01

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2022.8.23 掲載

26. アメイジング・グレイス

あの伝説のアメイジング・グレイス(Amazing Grace)を聴いたのは、コペンハーゲンのホテルの1室であった。Celtic Woman - Amazing Grace、偶々つけたテレビで流れていた。感動した。

Amazing grace! how sweet the sound
(驚くべき恵み なんと甘美な響きよ)

北欧のデンマークで、山岡ゼミの海外合宿をしていた際の、逗留先での遭遇であった。心が震えた。あれ以来、山岡にとって、アメイジング・グレイスは、心の歌になった。コロナ禍以前は、例年、山岡ゼミは、毎年夏に、環境先進国ドイツそしてスイス・フランスを加えた欧州3カ国を訪問する学外研修を実施してきた。そして2017年夏は、参加学生諸君から要望も勘案し、新たな訪問地として、北欧のデンマークでゼミ合宿を実施した。

デンマークに注目したきっかけは、他でもないドイツ人の友人からの提案であった。環境先進国として、人間の幸福を大切にする国として、人権を大切にする国として、ドイツを凌駕する「環境・幸福先進国」デンマークを訪問してみたらどうかという示唆であった。ならば、まずは試してみようと、学生諸君と、デンマークの首都コペンハーゲン、再生可能エネルギー100%自給の島として世界的に有名なロラン島、アンデルセンの生地オーデンセ、そしてスウェーデンのマルメを訪問してきた。結果は、大正解であった。

アメイジング・グレイス01

そして、環境教育の原点である森の幼稚園、オーガニックで有名なクヌセンルン農園、気候変動問題を世界に発信しているヴィジュアル気候センター、環境先進国デンマークを象徴する巨大風車、環境・幸福教育の鍵となるフォルケスコーレ、リサイクルセンター、ワラの地域暖房施設等々、環境・幸福先進国デンマークの最先端の現状を直接この目で見てきた。

実際に16名の参加学生諸君と現場に行ってみて驚いた。百聞は一見にしかずとはこのことを言うのであろう。そこに、めざすべき「別のもう1つの道」に通ずる未来の階があったのである。学生諸君も、世界一幸福な環境先進国の現場の実態を、その光と影の両方を、直接自分の目で見て、自分の耳で現場の人々の声を聴き、「デンマークではこんなことが実現できている」「デンマークの人たちはこんな風に暮らしている」と、当初想定以上に大きなカルチャーショックと深い感動受け、多くの学びがあった様子であった。この果敢なチャレンジングな試みの成果は、まずます上々であった。

それでは、はたして、国土は大半が不毛な平地で、世界で最も小さな国の1つでもあるデンマークの何がそんなに素晴らしいのか?かつて、内村鑑三はその名著『デンマルク国の話』の中で、ドイツ人詩人シルラーの言葉を引用して「天然には永久の希望があり、壊敗はこれをただ人の間においてみる」と喝破している。

自然に罪はない。自然には希望がある。人類が自ら犯した問題は、人類が身ら解決できる。それは道理である。欠落したインテグリティは、人類の知恵と工夫で復活も可能である。それをあながち楽観的だとか、夢想家の絵空事だとも言えまい。確かに希望はあるのである。実は、この楽観には、根拠がある。この広い地球上には「後世への最大遺物」ともいうべき驚くほど人間と地球環境に優しい持続可能な社会システムが現に実在しているのである。

世界有数の環境先進国で、再生可能エネルギーの普及、ワークライフバランス、充実した社会保障制度、存在感を持つ地方の在り方、国民の政治参画度の高さなどなどがすばらしく抜群で、インテグリティが健在で、かつ、国連の「World Happiness Report」による世界幸福度ランキングで過去5年間常に1位も含み上位に君臨し、しかも、一人当たりの名目・購買力平価GDPも日本よりはるかに高く、経済的にも豊かである小国がある。根っから明るくて、笑顔が素敵な、実現力のある夢想家が多く住む国。

実は、驚くなかれ。これが、欧州の小国デンマークなのである。

この問いへのヒントとなる1冊の本がある。デンマークに生まれフランスに長年住んでいた1人のデンマーク人女性マレーヌ・ライダル(Malene Rydahl)の書いた『デンマーク人が世界で一番幸せな10の理由(Happy as a Dane: 10 Secrets of the Happiest People in the World)』である。

ゼミ合宿では、この本が道標となった。この1冊を鞄に入れて常に携行し、現場で何度も読み返した。山岡ゼミでは、このデンマーク人女性の分析を道標に、今回現地で遭遇した実際のシーンを織り交ぜながら、検証した。マレーヌは、デンマーク人が世界で一番幸せな理由として、以下の10を挙げている。

① 人を信頼する
② 教育によって自分の居場所が見つけられる
③ 自立して自由に自分の道を選べる
④ 平等でなりたいものになれる
⑤ 現実的な夢をもつリアリストである
⑥ 他人を尊重する
⑦ 仕事と私生活のバランスがとれている
⑧ 必要以上のモノは望まない
⑨ 自分が特別な人間ではないことを知っている
⑩ 男性と女性の役割が同じ

この中でも、特に、今回の旅を通じて心に響いたポイントは、「他人の尊重」「信頼」「自立」「仕事と私生活のバランス」「必要以上のモノは望まない」の5点であった。実際、ゼミ合宿で訪問した「森の幼稚園」や、小中学校の教師や生徒、さらには、空港で出会ったデンマーク人夫婦、オーデンセとコペンハーゲンの往復の列車の車中で偶々同席したデンマーク人の大学院生や音楽家との様々な語らいを通じて、特に共感したのがこの5点であった。人間存在の本質につながる深い心の芳醇な「Integrity」がそこにあった。

マレーヌは、デンマーク人にとっての幸福は、個人的な意味が強いHappiness(幸せ)よりも、Well-being(満足できる生活状態)に近いと述べている。今回の旅でも、確かにその通りだと共鳴した。国連の「持続可能な開発ソリューション・ネットワーク(SDSN)」 の「世界幸福度ランキング(World Happiness Ranking)報告」でも「他人を信頼する人ほど幸せを感じやすい」とあるが、まさにデンマークでは、「信頼」「他人の尊重」「自立」が大事にされていた。

人は、自分がありのままの自分に近い状態でいられるほど、心が穏やかになり幸せを感じやすくなる。逆に他人と比較してプレッシャーを感じると幸せからどんどん離れていってしまう。自分の手の届く範囲で、小さなやりがいや夢を持つことが、Well-beingにつながっていく。そのことを、現場で出会った多くのデンマークの人々から感じた。

特に「他人の尊重」は、デンマークでは、基本的価値観となっていた。

偏差値主義の競争社会と揶揄される日本の教育システムに比較し、デンマークの学校は才能に優劣をつけないこと。訪問したデンマークの小学校の教室で直接生徒諸君にも聞いてみたが、日本では日々報道されているような陰湿ないじめはないらしい。

デンマークでは、貧富に関係なく誰でも無償で教育を受けられる。「社会に出てから居場所を見つけられるようにするのが教育の目的である」との現場の教師の言葉に深い感動を覚えた。また「誰でも大学などにおける高等教育を無償で受けられ、しかも、毎月約10万円の奨学金が与えられる」ことを知り、大いに驚いた。こうした教育システムや福祉制度の違いは大きいと感じた。

「信頼」は幸福の鍵である。「信頼は、大きなコスト削減となる」と言う視点も新鮮であった。人々がお互いを信頼しあわない社会は監視・防犯システム等コストが高い社会である。デンマーク人は自国の社会保障制度を信頼し、高く評価している。

欧州で一番高い税率も、多くの国民が、政府を信頼しているから容認納得しているのだと聞いた。特に「北欧のイタリア人」と呼ばれているデンマーク人は楽観的かもしれないが。「デンマーク人がナイフを手に持っているとき、ほとんどの場合、もう一方の手にフォークを持っている」というジョークは、今回旅先で出会った大きな収穫である。

「自立」はとても大事な幸福の要素である。デンマークの「森の幼稚園」を見学した時、幼少期教育の段階から「自立」が徹底していることに気づき、大いに感銘を受けた。「森の幼稚園」の「怪我と弁当は自分持ち」という運営方針が実に面白い。森の幼稚園の先生たちは、見守りに徹しているおり、目の前で平気に高いところまで木登りする園児を見ても決してとめようとはしなかった。「あんなに高いところまで登って、落ちたら危ないのでは?」との当方の質問に「怪我をするのも学びです。自分の限界を知ることも大事です。」と、園長先生が、しれっと、笑顔で答えたのが印象的だった。

日本のように保育園側の責任回避のために、ハラハラしながら子供たちの遊びや行動をむやみに止めさせるということはないのである。また、先生と生徒の立場が平等であることにも大いに感動した。先生も同じ人間として生徒と同じ目線で話していた。先生も真摯に生徒の発言を聞き、必ず褒めることばを返していたことが印象的であった。生徒の言動も実に主体的・自発的で、多くの生徒が躊躇なく挙手し自分の意見を堂々と言っていた。

デンマーク人は「仕事と私生活のバランス」を、とても大切にしている。小中学校の教師も部活等番や残業は皆無である。先生も心に余裕があり、生徒同様、笑顔が素敵であった。work–life balanceが、日本のようにスローガンや建前ではなく、しっかりと地に足がついているのである。

デンマークに「過労死」や「滅私奉公」や「社畜」という概念はないと聞く。日本人はまだまだ仕事の比重が大きい。自分の心に正直になり「自分はこれでいいんだ」と認めることは大事なことである。健康で家族がいることを当たり前と思わず感謝することはとても大切なことである。終わってしまった過去や予測不能な未来は考えず、今を精いっぱい生きることは、Well-beingの重要な要素である。

この多くの要素の1つ1つが、デンマークには当たり前にあって、日本にはないことが、実に残念である。なぜいつも笑顔の素敵なデンマーク人がなぜ多いのか、その理由がわかる気がした。なぜ、デンマークが世界一幸福な国であると同時に、世界有数の環境先進国であるのか。

「持続可能な社会」とは、「将来世代のニーズを、満たす能力を損なうことなく、現在世代のニーズを、満たす社会」である 。本郷で教壇に立って、学生諸君に必ず話す概念に「環境、経済、社会のトリプルボトムライン」という概念がある。環境、経済、社会の三位一体が成立してこそ、本物の「持続可能な社会」が実現するのだと思う。自分たちの世代だけの利害ではなく、将来世代のことも考えることは、デンマークの幸福の鍵である「他人の尊重」に相通じる。そして、こうした「持続可能な社会」を構築するためには、「信頼」と「自立」が鍵となる。このすべての要素が、実は、デンマーク人が世界で一番幸せな理由と同じであることに気づいた。

おそらく、「環境」と「幸福」は一種の連立方程式かもしれない。その両方を充足する解は、実は共通解なのではないかと、コペンハーゲンから帰国便の機中で、眼下の雲海を眺めながらふと気がついた。「環境」と「幸福」の連立方程式の解法、まさに、これこそ、アメイジング・グレイスだろう。

(次章に続く)

最終章 「27. ワルキューレの微笑」