2022.6.7 掲載
山岡には、本郷の山岡研究室に入る時の流儀がある。ゼミ生も同僚教員も知らない秘密の儀式だ。それは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの無伴奏チェロ組曲(Suiten für Violoncello solo)をかけることである。室内にチェロ独奏用の組曲の音色が流れ始める、それから、ようやく、研究に取り込める。
そもそも、この無伴奏チェロ組曲は、全く歴史に埋もれていたわけではなかったが、しばらく、単純な練習曲として忘れられていた時期が長かった。その後、パブロ・カザルスによって再発見されて以降、チェリストの聖典的な作品と見なされるようになった。現代においてはバッハの作品の中でも特に高く評価されるものの一つで、チェロ以外の楽器のために編曲して演奏されることも多い。
カザルスが演奏会で初めてこの組曲を弾くのが、いまから100年以上も大昔の1902年のパリで、有名な録音を残すのが1933~36年のことだと言われている。バッハ好きでカザルス好きでもあった山岡は、彼の生地、スペイン・カタルーニャ地方タラゴナ県アル・バンドレイも訪問している。
山岡が、大学教授就任以降、この無伴奏チェロ組曲を聴きながら、継続的に取り組んできた1つのテーマが、あった。それは、地球環境という最大の共有地の悲劇(Common source problem)を回避することであった。そして、その解決法として、「負の外部性(externality)」をいかに内部化させて、人類経済社会システム全体に、「環境化(environmentalization)」を実装できるかにあった。あまり聴きなれないやや専門的な言葉だが、「共有地の悲劇」とは、有限な資源が集まる共有地の利用が自由な場合、追加的な経済活動の拡大増加が「負の外部性」をもたらすことがある問題をさす。ここでいう「負の外部性」とは、経済主体の行動が、応分の対価を払わずに、他の経済主体の効用や利潤にマイナスの影響を与える。この問題を「共有地の悲劇」と呼ぶ。
実は、世界最大の「共有地」は地球環境そのものである。そして「共有地の悲劇」の最も深刻な事例が、気候変動問題である。気候変動の根本的な要因の根絶や現状への対応をするには、世界中のあらゆる分野の人々が力を合わせる必要があるが、なかなか、世界中の人々が「自分ごと」として考えて行動するには至たっていないのが悲しい実情だ。
負の外部性問題やの共有地の悲劇の問題の解決のためには、外部性を「内部化」させる経済的手法を採らねばならない。いま国際社会では、特に、最も深刻な気候変動問題の解決のために、負の外部性の内部化をいかにしたら実現できるかが、喫緊の課題となっている。山岡は、気候変動問題等の地球環境問題解決のために負の外部性を内部化することを「環境化」と呼んだ。いまや、2015年に締結された「パリ協定」等、環境に優しい持続可能な新しい国際的枠組み構築に向け、全球的な「環境化」のモメンタムが起こりつつあるが、こうした人類経済システムの環境化の中で注目を集めているのが、国際金融システムに「環境化」を実装する試みである。
この先駆的な試みの1つに「炭素通貨(carbon money)」がある。これは、気候変動コストを「通貨」を通じて「環境化」する試みで、既に英国ではfeasibility studyも実施済みで、気候変動問題と国際金融問題を一石二鳥に解決する有効な処方箋として大いに注目されている。
いま人類は、国際金融危機と地球環境危機という2つの深刻なグローバル・クライシスに直面している。元来、国際金融と地球環境は、お互い似たもの同士。ともに国境を越えたグローバルな存在で、 国境を越えて世界中の人々に影響を与え、その影響の伝達速度は速く、影響範囲は広範囲にわたり、子孫の代まで塁が及び、その影響の程度は強大だ。そして、一国では解決しえない深刻で厄介な難問である点でも似通っている。そして、この2つが、複雑な連立方程式のように、人類に不可解な難問を突き付けている。はたして、気候変動問題と国際通貨問題の同時解決は可能なのか。国家単位ではとうてい解決しえないこの2つのやっかいなグローバル・リスクの連立方程式の解を、いかにして解くのか?
実は、その難問を一石二鳥に解決できるアイデアが、Global Carbon Moneyであった。この構想は、2つの画期的なアイデアに依拠していた。1つ目は、「炭素通貨」。温室効果ガス排出権の進化形で、気候変動問題への有効な処方箋の1つとして面白いアイデアだ。環境コストを「見える化」させ、因果応報の仕組みを明らかにし、環境破壊をした当事者はそれ相応の合理的な費用負担をする「環境化」の仕組みだ。
2つ目は、「バンコール(Bancor)」だ。かつてケインズ(J.M.keynes)が説いた幻の世界通貨。国際金融問題への有効な処方箋の1つとして面白いアイデアだ。彼は、戦後の国際金融秩序の骨格を築くブレトン・ウッズ会議において、超国家的な性格を持つ国際通貨(Supra Sovereign International Reserve Currency)創設の必要性を説き、それが、基軸通貨に代わって、国際的な不均衡是正に貢献する新たな通貨となるべきであり、その実現のため、世界の流動性をコントロールできる国際機関(global institution)の創設が急務であると主張した。このバンコールの炭素通貨版が、このGlobal Carbon Moneyなのだ。いままさに、人類が、国際金融問題と地球環境問題という2つの深刻なイッシュに直面している中、この全球的な連立方程式を一挙に解決する解法が誕生しつつある。
それでは、はたして気候変動問題と国際通貨問題の同時解決は、本当に、このGlobal Carbon Moneyの登場によって可能なのか?この日記で、専門的議論は割愛するが、結論から言うと、可能である。
地球環境本位の世界通貨(Global Currency; GC)の創設構想を視野にいれたGlobal Carbon Moneyの未来志向的な議論には、実は、さらに重要が含意がある。従来のように通貨覇権国家一国だけが「seigniorage(基軸通貨発行益)」を享受できる不公平な仕組みではなく、世界各国の同意を得て地球環境価値に裏打ちされた世界共通通貨を創設し、そのseigniorageを世界全体が公平に享受できる仕組みを模索することは、世界における恒久平和構築のプラットフォームとしても、重要な意義がある。つまり、国家を前提とするパラダイムに変化を求めるものである。
この構想は、決して見果てぬ夢を追い続けるドン・キホーテの絵空事ではなく、近未来の現実のはずである。かの高名な経済学者であったケインズが、よもや、幻となった自分の生んだバンコールが、地球環境通貨としてこの世に復活することを知ったら、草葉の陰で、さぞかし驚くことであろう。そんな、ささやかな楽しみを頭に、いまも、研究に没頭している。
(次章に続く)