ワルキューレの微笑 ~ある地球環境学者の鎌倉日記~ 作:古屋 力

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2022.3.4 掲載

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1. プレリュード

秋の空は美しい。海も素晴らしい。洋上に浮かぶ白いヨットの帆も、清楚で好い。
いま、山岡淳也は、某大学病院の9階の海一望の個室病棟にいる。想定以上に快適な環境で、大いに気に入っている。

先ほど、病棟の1階上の10階にある、四方の海を一望できる屋上庭園で、陽光を浴びながら、青い海を眺めてノンビリしてきてところだ。「海なし県」山梨生まれの田舎者にとって海が見える風景はあこがれであった。「終の棲家」を、海と山に囲まれた鎌倉を選択したことは正解であった。病院は、鎌倉の自宅から車で30分の至近にあった。

美しい青い海と空を眺めながら、山岡は、3年前の2018年の今日、ポーランドのカトヴィツェ(Katowice)にいたことを思い出していた。地球環境学者として、国の代表団参加研究員の1人として、COP24(気候変動枠組条約第24回締約国会議)の会場にいた。そこで、山岡は、不思議な光景に遭遇した。ある会場で、1人の少女が演説していたのだ。しかも、身なりも、風体も、他の国家代表や地球環境学者、NGO専門家等とは違っていて、普通の学生であった。そして、さらに驚いたのは、その発言内容であった。

「あなた方は、自分の子どもたちを何よりも愛していると言いながら、その目の前で、子どもたちの未来を奪っています」
「あなた方は人気低落を恐れるあまり、環境に優しい恒久的な経済成長のことしか語りません。非常ブレーキをかけることだけが唯一の理にかなった対策なのに」
「重荷を、あなた方は私たち子どもに負わせているのです。私は気候の正義と生きている惑星のことを考えます。」

不味なposition talkに終始した他の政府代表参加者と違って、彼女は真正面から痛快に切り込んでいた。COP24は、「パリ協定」を実施するために必要な細則・実施方針決定や「タラノア対話」総括、途上国への資金的支援等、重要案件山積の重要会議であったが、それ以上に、山岡は、彼女の演説を聞けただけでも、はるばる地球の裏側からポーランドまでやってきた甲斐があったと思った。演者のリストには、Greta Ernman Thunbergとスウエーデン人の少女の名前が書いてあった。

戸田建設グループ

ちなみに、COP24期間中、宿は、ホテルが満室で予約できなかった開催都市カトヴィツェを避けて、近隣の美しい古都クラクフ(Krakow)に長らく逗留した。

朝から晩までCOP24会場にいながら、世界中から集まっていた専門家や研究者との議論と情報交換に明け暮れたが、時折、早めに帰った日は、この古都を散策した。
ポーランド南部の古都クラクフは、かつてはポーランド王国の王都で、ウィーンと双璧をなした中世における中欧最大の文化都市で、美しい都市だった。旧市街には今もなお、中世の頃の街並みがそのままに残り、ヨーロッパで最も美しい都市の一つに数えられていた。

ポーランド滞在中は、専門家を訪問するために、ワルシャワにも、1回訪問した。ワルシャワ大学訪問の後、すこし時間があったので、近くのフレデリック・ショパン博物館(Muzeum Fryderyka Chopina w Warszawie)を再訪した。

ショパンのデスマスクや最後まで使ってたピアノ等はじめ、ここでしか見れない楽譜やピアノ、手紙類に時間を忘れて見入ってしまった。地下ではジャンルごとに曲を視聴することができた。つい時間を忘れて聞き入ってしまった。たまたま聴いた曲が、ショパンのプレリュード(前奏曲)作品28の4番ホ短調だった。山岡自身が唯一演奏会で演奏した曲だった。奇遇に感動した。実は、ショパン自身にとっても、この曲だけにespressivoを書いている思い入れが強い曲だ。山岡が、50の手習いで、大昔、同じ鎌倉在住のピアニストに手厚いご指導を受けて、なんとか演奏会までこぎつけたのが、この曲であった。

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入院中で静かな1人の時間があるからなのだろうか、こうした状況下で、いろいろと無垢に思うことが次々と脳裏に浮かんできた。外部情報が限定的で、熟思黙考できる環境は、実は、大昔に、高校時代、郷里山梨の名刹「雲峰寺」に寺籠蟄居して、受験勉強に没頭した時期に似ていた。

特に、今回、無垢に思うことが次々と脳裏に浮かんできて熟思黙考できる環境の背景には、単なる入院ではない特殊事情として、気管切開があった。生涯初めて、手術をし、気管切開も初体験した。一時的とは言え、声を失った。声帯を使った外部コミュニケーションが一時的に不可能になった。しかも、絶対安静で、始終寝たきり。よって、問答無用に、静かに熟思黙考するめったにない機会を期せずして与えられた。

思えば、山岡は、この世に生を受けてから今日に至る過去60余年、「動」一色であった。学生時代の1年生の時の書生経験も稀有なセレンディピティ(serendipity)だった、同郷出身の出版社創業社長の豪邸に住み込みで、庭仕事等をしながら、学費と生活費を出してもらっていた。ちなみに、セレンディピティとは、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけることである。平たく言うと、ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることを意味している。

山岡は、書生で苦学して働いた資金を元手に、横浜港からソ連船で、ナホトカ経由でユーラシア大陸に上陸して、シベリア達道経由で2か月ほどヨーロッパ全土を気ままに旅した貧乏旅行は、愉快痛快であった。この未知との遭遇のワクワク感と達成感が、その後の山岡の人生へのスタンスを支えた。その後、J.M.Keynesに関する修士論文を書き上げて外国為替専門銀行の東京銀行に就職した。その30年間の在勤中、通算2回8年以上に及ぶドイツ生活や、後半の研究所時代を含め、実に刺激的で豊かなセレンディピティに彩られた面白い半生だった。

その後、山岡の人生は、期せずして、数奇な「人生二毛作」の展開をする。2010年3月に、前職の国際金融マン生活を、円満退職して、卒業する。そして、その4月に、本郷の某私立大学教授に就任した。それ以降の10余年の学者生活では、毎年、ゼミ生諸君とともに、環境先進地域である欧州のドイツ、デンマーク、スウエーデン、フランス、スイスでゼミ合宿を開催し、実に愉快な海外研究をしてきた。かように、国際金融マンと学者生活という2本立ての「人生二毛作」を舞台に、まさに疾風怒涛の如く、世界中を駆け巡り、公私ともに多種多様な人々と出会い、大いに愉快に語り合ってきた。

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こうした人生を駆け抜けてきた山岡にとり、今回の2020年以降のコロナ時代の日々は、真逆の世界であった。個人的な心象風景も、まさに「動」から「静」へ、180度、パラダイムシフトした。2020年春以降本格化したコロナ禍で、本郷での大学講義のオンライン化もあり、都心の本郷から鎌倉の山奥に主な仕事場が移り、急激に人々と対面会話する絶対的機会が激減した。加えて、2021年に入ってからは、今度の手術入院に伴う気管切開で、一時的に声を失い、生涯初の、想定外の「決定的な寡黙な生活」に突入した。

だが、不思議にも、山岡には、この「決定的な寡黙な生活」には、悲壮感がなかった。むしろ、楽しんでいる雰囲気すらあった。どこまでも、おめでたくも、楽観的でpositiveな人間なのであった。病室で、1人で朝から、イアホンでバッハとモーツアルト聴きながら、寝たままでいると、次々、今日に至る人生の風景が走馬灯のごとく浮かび上がり、それが、単なる追憶で終らずに、そこに随想が生まれ、あたかも、誕生から64歳の今日に至る64年間の「棚卸」や「中間決算」のごとく、あるいは、あたかも修行僧のごとく、脳裏に浮かびあがってきた。

かつて、いろいろな曲想が自然と脳裏に浮かびあがってきたと言われた神童モーツアルトは、おそらく、こうだったのだろうかなと、山岡は、思った。むろん、神童モーツアルトと同じに水準ではないにしても、こうした沸々と沸き起こる随想をメモに書いているうちに、これを1つの私小説にしようとすら思った。転んでもただでは起きないタフな気性は生来のものであろうか。

(次章に続く)

次章 「2.ワルキューレ」