ワルキューレの微笑 ~ある地球環境学者の鎌倉日記~ 作:古屋 力

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2022.6.28 掲載

17. ゴルトベルク変奏曲

世界有数の課題先進国と揶揄されている日本は、ホーキング博士の予言に至近な国かもしれない。戦後高度経済成長期を経て、経済効率を追求し続け、少なくとも経済的にはこれだけ豊かになったはずの日本は、その道程で、大事な人間の穏やかな幸福や人間としての尊厳をないがしろにし、そのまま過去に置き去りにしてきてしまったのではないか。

山岡は、過去2回通算8年間にもおよぶ欧州駐在から帰国して、祖国日本でしばらく過ごす中で、そこに、人間の尊厳も空しく、せわしなく行き交う人々の焦燥し疲弊した表情をうかがうにつけ、あまり心豊かな人生を楽しんでいるようには見えないと思った。はたして、本当に、日本人は、幸福なのであろうかという本源的な疑問は払拭されないままである。

祖国日本に感じたのは、インテグリティ(Integrity)の欠落であった。

インテグリティという言葉の由来は、全体性(wholeness)や完璧性(completeness)、清廉性(purity)を意味するintegritasというラテン語にある。英語としては、完全性を意味する言葉。人間としての高潔さ、自分の人生への誠実さ、お互いの慈しみあいの心。いまわれわれ日本人に最も求められていながら最も欠落している資質は、まさにインテグリティではなかろうか。

日本は、バブル経済崩壊後の不良債権や経営破綻、そして原発事故の処理において、経営者も監督官庁も責任逃れと失敗のごまかしを繰り返してきた。過去からの日本の無責任体系が、市場と一般市民の自己責任を重視する新自由主義と共振してしまった。そこには、人間不在、インテグリティの欠落があった。そして、なによりも、人間の尊厳と真の幸福が疎外されてしまった。

コロナ禍における対応や、気候危機問題に対する取り組み、入管における人権問題、様々な政治的不祥事に関する隠蔽等の所作を見るにつけ、山岡は、いたたまれない気持ちになった。そして、人間としてもっとも大事かけがえのない「人間の関係性」、「人になすことは、自分になすことである」という、人間存在の本質につながる深い心の芳醇な部分が、徐々に涸渇しつつある気がしてならない。

それでは、なぜ、インテグリティがかくも衰弱してしまったのだろうか。それが、ホーキング博士の予言を読み解く鍵となる気がしてならない。

日々、大学の教室で専門の地球環境問題について学生諸君に語りながら、あらためて、つくづく思うことがある。それは、真の豊かさとは、どんなに経済的に比較優位にたったところで、人間の尊厳を毀損して、我々を取り囲むかえがえない自然をないがしろにして、担保されるものでは決してないということである。

山岡は、こうした日本における滑稽とも見える皮相的かつ貧弱な政治風景と、街を往来する人々の必ずしも幸福そうでもない疲労感ある表情を垣間見るにつけ、時に正気を失いかけることがある。その時、本郷の研究室でも、鎌倉の自宅書斎でも、必ず1つの曲を聴くことにしている、それは、ドイツ在住時代から習慣にしているJ.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲(Goldberg-Variationen)」である。

ちなみに、ゴルトベルクとは、ドイツのザクセンの宮廷に駐在していたロシア大使カイザーリンク伯爵がひいきにして雇っていた若き鍵盤楽器奏者の名前だとの由。ヨハン・ゴットリープ・ゴルトベルクである。カイザーリンク伯爵は、彼を連れて、ライプツィヒをたびたび訪れ、J.S.バッハと彼の長男W.F.バッハに、レッスンを受けさせていた。そして、伯爵はそのころ不眠症に悩まされていたので、なんとバッハに「眠くなる曲」の作曲を依頼し、ゴルトベルクに演奏させることをしたとの逸話すらある。知らんけど。

J.S.バッハと言えば、『美しき緑の星(La Belle Verte)』というフランス映画に登場したことがあった。バッハが登場する映画なんて実に稀有である。この映画の表題でもある「美しき緑の星」は、貨幣経済や争いもなく、すべての生命と自然、大地が調和して暮らす惑星だ。地球的な文明を大昔に卒業して自然との循環と調和に恵まれた惑星だ。この「美しき緑の星」は、遠方の様々な星に「星外派遣」を送っており、調査や文明の援助をしている。映画の中では「ヨハン・セバスチャン・バッハは、200年前にわたしたちが送った音楽家だ」なんて台詞も登場する。

ゴルトベルク変奏曲01

この映画の見どころは、ミラが駆使する「接続解除(déconnexion)」という不思議な超能力だ。両手でこめかみを押さえて、首を勢いよくガクンと後ろにのけぞらせると、「本来の自分」に目覚めてしまう、不思議な力が、この「接続解除」にはある。この映画では、「接続解除」で、ほんとうの自分にもどった人たちの喜びと暖かさがにじみ出るシーンが登場する。権力者、医者、商店主、サラリーマン、音楽家など、ミラと出会った人々は次々に意識が覚醒し、本来の自分に戻っていく。

戦争や人種差別、性差別、過剰な交通、大気汚染、人工的な食物、貨幣制度、経済格差等々、課題山積で、実に忌まわしくやっかいな惑星「地球」には誰も行きたがらない。そこに登場したのが、ミラ、この映画の主人公だ。理想郷たる惑星「美しき緑の星」から、どうしようもない地球人を目覚めさせるためのお助け係として、地球に派遣された。この映画では、ミラの目線を通して、現代人の意識の在り方と現代文明の問題点を、我々に問いかけている。

いまや、人類は、容易ならざる深刻な実情に直面しているにもかかわらず、いまだに、性懲りもなく、まったく反省する姿勢もない。深刻な危機感自体が、全人類に共有されていない。7年前の2015年に誕生した「パリ協定」も「SDGs」も、為政者の威勢のよい宣言とは裏腹に、いまだに、その進捗状況は、はかばかしくなく、さらにコロナ禍で、悲劇的で深刻な事態にすら陥っている。いまや、世界の温室効果ガス濃度が、200万年ぶりの高水準に達している。世界平均の気温は産業革命前に比べ、すでに1.09℃上昇し、気温上昇を1.5℃にとどめるという国際的目標まであと0.41℃とし、さらに、1.5℃上昇の時期が3年前の報告書より10年前倒しになっている。

今のところ各国が提示している削減目標をすべて合わせても、1.5℃に抑えることはできない。最新の国連環境計画(UNEP)の年次報告書「排出ギャップ報告書」は、地球の気温が今世紀中に平均で2.7℃上昇することが見込まれると公表している。

新型コロナウイルス感染症と気候危機は致命的な危機であり、人類の生存に関わる深刻な連帯問題である。コロナ禍から脱炭素で持続可能な社会への速やかな移行を進めることが日本と世界が目指すべき方向である。コロナ禍不況からの脱却を意図する経済復興策は、同時に脱炭素社会への移行と転換、そしてSDGsの実現に寄与する「緑の復興」でなくてはならない。

山岡は、病室から、2015年の「パリ協定」以降で最も重要な気候変動対話となる現在開催中のCOP26の進捗を気にしつつ、一方で、こともあろうに、日本が、先日11月2日に、「化石賞(Fossil award)」を受賞したとの悲報を耳に、やるせない気持ちになっていた。そして、この主人公ミラに、自分を投影した。その投影剤が、J.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲」なのかもしれない。

それにしても、日本が直面している「閉塞感」という深刻な問題の本質は、何なのか?人を幸せにすることによって幸せになれる人間だけが、本当に幸せになる。地球環境問題の鍵は、この人を幸せにすることによって幸せになれる人間が増えることにある。それは、他者へ未来に向けた想像力を持つことだ。この利他心と想像力が、日本では、ことごとく衰弱してしまっている気がしてならない。その背景には、人々が、自分で考え、自分で感じることをしなくなっている深刻な事情がある。そして、いまや経済や資本はどんどん巨大になっていって、お金だけは、数字の上では膨らんでいる一方で、我々の幸福を見ると、はたして、真の幸福や豊かがあるのか大きな疑問や不安を抱かざるを得ない閉塞感がある。

この原因は、人類の「システム依存」にある。人は幸福に生きてくため経済的豊かさを求める。それを支えるのが資本主義システム。資本は増殖を追求し、永遠の経済成長という幻想に陥る。資本主義システムでは、合理化が進む。すると過度なシステム依存が進む。過度なシステム依存が進むと、「我々が道具としてシステムを使って」いたのが、「システムが我々を道具として使う」フェイズに相転移する。システムがちゃんとすると、人はシステムに依存するようになる。その結果、弱者が困った時にも人を頼らなくなるし、周囲の人には弱者を助けようという意欲もなくなってしまう。

システム依存が過ぎることを、「汎システム化(pan-systemization)」と呼ぶ。「汎システム化」が進行すると、人がバラバラになって人倫の世界=価値観をベースにした人間関係の界隈が終わる。人々は世界の主役ではないと感じる。自分のポジションもステータスも誰かと置き換え可能だと思う。疎外を感じる。なので不安になる。不安だから刹那的な消費等に現実逃避する「不安を埋め合わせたがる神経症」に陥る。そこに閉塞感が生まれ、人々は、真の幸福を獲得できない。閉塞感が生まれると、利他心や想像力や人間性が衰弱し、環境問題にも無関心になる。だから、なかなか地球環境問題の解決が前に進まない。

そう考えながら、山岡は、映画『美しき緑の星(La Belle Verte)』ではないが、もう1度、J.S.バッハを日本に派遣してもらいたい気持ちになった。

(次章に続く)

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