ワルキューレの微笑 ~ある地球環境学者の鎌倉日記~ 作:古屋 力

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2022.7.19 掲載

20. 平均律

2週間程度入院していると、いつもは、気にもとめなかったことを、ふと、気が付くことがある。まさに、これこそ、定点観測の効用である。特に、気づいた問題点があった。

それは、論理的、理性的先行にともなう弊害である。過剰な検査と、組織防衛も見える過剰な膨大な承諾書の山。この実体験を通じた気づきは、想定外の稀有な学びであり収穫となった。これは、何も、医療分野に限らず、大学でも、企業でも、行政でも「宿痾」のごとく沁みついている危険な「思考の習慣」のような気がしてらない。そう、山岡は、思った。それが、今回の人生初の長期入院いう経験を通じて再認識した。医師の価値規範と行動原理、加えて、病院という巨大システムの根本は、「分析」「論理」「理性」の三位一体で、成立している。山岡自身、このことに異議は、まったくないし、その三位一体のおかげで、病気早期発見と治療を受けれたわけで、文句を言う筋合いはないことは、自明である。

しかし、山岡が、感じた問題点は、論理的、理性的先行にともなう「弊害」である。医師は、患者の顔や体をほとんど見ることなく、PC画面上のデータばかりを見ている。看護師は、ひっきりなしに、血圧、血液検査、体温、血中酸素濃度や血糖値を測定しに来る。おそらく膨大なビッグ・データだろう。

山岡は、科学的方法(scientific method)や、科学的手法、科学的検証を否定する気は、毛頭ないし、地球環境学者として、むしろ、日ごろから、教壇でも学会でも、科学的方法(scientific method)の重要性を力説してきた方である。 しかし、実は、そこにこそ、山岡は、違和感を、感じ始めている。これは、地球環境分野でも、企業経営分野でも、最近特に問題視れてきた「正解の画一化」や「正解のコモディティー化」にも通底する、深刻な問題を孕んでいる。

平均律01

鍵は、VUCAである。このVUCAという聴きなれない言葉は、「Volatility(変動性)」「Uncertainty(不確実性)」「Complexity(複雑性)」「Ambiguity(曖昧性)」の頭文字を並べたものであるが、もとは冷戦後より戦略が複雑化した状態を示す軍事用語であった。2010年ごろより、「VUCA時代」に人類社会全体が突入した。そして、気候危機の時代に、コロナ禍の時代に、いま人類は生きている。こうした複雑な時代にこそ、「正解の画一化」や「正解のコモディティー化」に対する警戒感が必要ではないのか?論理的、理性的先行にともなう弊害について、考える時期に来ているではないか? 山岡は、そう、思った。

そもそも、行政も医療も、さらには、企業経営も、明文法に依拠した「実定法主義」を行動判断のよりどころにしている。そして、その判断を担保しているのが、「分析」「論理」「理性」の三位一体である。そこに、違和感と限界と危機感を感じる。

なぜなら、そこには、全体知を知ろうとする意識、さらに言うなら、「美意識」と「直感」が、欠落しているからである。「実定法主義」とは、経験的に検証可能な事実として存在する限りにおいての実定法のみを法学の対象と考える方法論であるが、そこには、実証不可能な事実を除外するリスクがある。昔の「赤ひげ」に象徴される名医の多くは、この不都合な検証不可能な事実をも包摂して、患者に向き合った。そこに「美意識」と「直感」と「人間愛」があった。しかし、現代医療の臨床の風景は、しきりに、PC画面上のデータばかりを見ている医療従事者の姿である。そこに「美意識」も「人間愛」もない。

そもそも、医療も、企業経営も、高質な判断をするためには、科学的データや、明文化した法律のみに依拠せずに、人間として、本来持っているはずの美意識や感性が、必須不可欠である。残念ながら、肝心なその部分が、ごっそりはげ落ちている危険を感じる。そして、そこに組織防衛と保身を感じてしまう。

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前職、外国為替専門銀行時代の後半、某財閥系銀行と合併し、最大のメガバンクなった。山岡は、某財閥系銀行の本店の3階あった営業第二本部で、ソニーを担当した。ソニーは、他の某財閥系銀行の主力取引先あった錚々たる財閥系会社との大きな違いがあった。まだ、創業者である盛田さん健在のソニーには、企業文化として、「美意識」と「直感」が、あった。他の取引先の多くは、「分析」「論理」「理性」の三位一体に依拠した「実定法主義」の呪縛にとらえわれ、「美意識」を感じさせる空気がなかった。

ソニーは、会社の設立目的の第一に「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由豁達にして愉快なる理想工場の建設」を掲げた。その伝説の「設立趣意書」を読むたびに、感動する。

 日本企業で断トツ1位の株式時価総額、約30兆円の営業収益、2兆円を超える営業利益を誇る、日本一の企業であるトヨタは、いま脱炭素の壁に直面し、苦境に陥っている。そして、燃料電池車(Fuel Cell Electric Vehicle, FCEV)で、活路を模索している。しかし、そこには限界があると、山岡は感じた。「伸びる脱炭素市場、波に乗れず 上位から続々転落 日本の退潮鮮明」なんて記事も気になる。かつてのソニーやテスラにあって、トヨタにないものがある。それは、「美意識」だ。コロナ禍の気候危機時代、VUCAの時代に、偏差値は高いが美意識が貧弱な企業は生き残れない。その典型がトヨタだ。

かつて、哲学者ハンナ・アーレントは、旧ナチ戦犯アドルフ・アイヒマンのエルサレム裁判の記録報告書『エルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』(Eichmann in Jerusalem. A Report on the Banality of Evil)』で、「悪の陳腐さ」という言葉を使っている。ここでいう「悪」とは、システムを無批判に受け入れることを意味する。まさに、トヨタは、いま、この「悪の陳腐さ」のドグマに陥っている。

いままで、内燃機関移動体という既存システムの中で、最適化に成功し、便益を享受しつつ、ここまで、成功してきたトヨタにとり、この既存システムを相対化し、パラダイムシフトを、自らに課することは、苦渋な選択であろう。それを担保するのが「美意識」であり「ビジョン」である。はたして、トヨタは、その「美意識」であり「ビジョン」が、あるのか。あるいは、その完全な陳腐さにおいて(in ihrer ganzen Banalität)、このまま、終わってしまううのか。人間は、「論理」「理性」だけで生きている訳ではない。「美意識」と「直感」が大事だ。それでこそ、人間である。人間を相手にている企業も医療も、「美意識」と「直感」が必要可決である。それこそが、企業も医療のレゾンデートル(raison d'être)であるから。病室で、1人静かにバッハの平均律(Das Wohltemperierte Klavier)を、聴きながら、そんなことを、ふと、思った。

(次章に続く)

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