ワルキューレの微笑 ~ある地球環境学者の鎌倉日記~ 作:古屋 力

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2022.4.19 掲載

7. リナルド

英国のロンドンのメィフェアには、不思議な記念館ある。ヘンデル・ヘンドリックス博物館(Handel and Hendrix in London)である。なぜ不思議かと言えば、世界でも珍しい、2人の音楽家のフラットを一か所で再現した稀有な記念館だからである。

18世紀の作曲家・宮廷指揮者のヘンデル(Georg Friedrich Händel)は、「メサイア」の作曲者として知られ、音楽の母とも呼ばれている。ジョージア朝時代、メイフェアは裕福なミドルクラスの人々が住むエリアであった。ドイツ出身のヘンデルは、その後、英国に移住し、1723年から1759年まで、ロンドンのここに居を構えた。この記念館には、彼のお洒落で品がある暮らしぶりが忠実に再現されている。

不思議なことに、このヘンデルが住んだブルック・ストリート23番地の隣の24番地に、20世紀には伝説的なギタリストのジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)が一時的に住んでいた。ヘンドリックスは近くのJohn Lewisでカーテンやクッションを、ポートベロー・マーケットなどで装飾品を購入し、好みに合わせてフラットの内装を飾り付けた。この記念館は、時代もジャンルも違う、2人の偉大な音楽家の軌跡を知り、趣の異なるそれぞれの生活空間を観ることができるユニークなミュージアムだ。

山岡の大好きなアリアに、このヘンデルが作曲したオペラ『リナルド』のなかのアリア「私を泣かせてください」(Lascia ch'io pianga)がある。劇中で、エルサレムのイスラーム側の魔法使いの囚われの身になったアルミレーナが、敵軍の王アルガンテに求愛されるが、愛するリナルドへの貞節を守るため「苛酷な運命に涙を流しましょう」と歌うアリアである。

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ところで、英国と言えば、英国で、一番多く山岡が訪問した街は、実は、ロンドンはなく、ケンブリッジだった。山岡は、研究出張で、英国ケンブリッジのクライスツ・カレッジ (Christ's College) に、一時期逗留していたことがあった。1505年に設立されたイギリスのケンブリッジ大学のカレッジの一つで、自然科学者のチャールズ・ダーウィンや詩人のジョン・ミルトン等々、そうそうたる逸材を生んだカレッジだ。

ケンブリッジ在住歴10年の友人でケンブリッジ大学フェローのDr.Marieのご案内で、一般観光案内には載っていない「とっておきのケンブリッジ版トリビア」を教えてもらったことがあった。ダーウインの自宅跡や、サッカールールの起源となった公園を見学。いまのサッカーゴールの幅は、ナントこの公園の並木の木の間の間隔が基準となったそうな。1848年、ケンブリッジ大学で初のルール策定がなされたが、これはアソシエーション・フットボールを含む後に制定される規定の発展に特に影響をもたらした。ケンブリッジルールはトリニティ・カレッジで作成されたものであり、イートン校、シュルーズベリー校、ハーロー校、ラグビー校、ウィンチェスター校などの学校の代表者が出席して行われた会合で定められた。

Dr.Marieは、ケンブリッジ散策の終盤、とっておきの場所に案内してくれた。DNAの二重らせん構造を発見したワトソンとクリックが議論を重ねていたことで知られているケンブリッジの老舗パブ『The Eagle』だ。店内には、かのワトソンとクリックのDNAの二重らせん構造の伝説の論文「Molecular Structure of Nucleic Acids: A Structure for Deoxyribose Nucleic Acid(核酸の分子構造および生体における情報伝達に対するその意義の発見)」が、額入りで、しっかり、掲示してあった。

いつもそうだが、Dr.Marieとの議論は盛り上がる。ご専門のcognitive neuroscience(認知神経科学)の話から、地球環境問題解決にcognitive neuroscienceがいかなる形で貢献できるか、さらには、現在研究中の炭素通貨論やアジア再生可能エネルギー協働的コモンについての意見交換に始まり、ケンブリッジ在住10年ならではのトリビア的な「ケンブリッジあるある話」等々、時間を忘れて語り合った!

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山岡は、学生時代の貧乏旅行で初回訪問した時以来、英国ケンブリッジには何度も足を運んでいるが、いつも、この街を訪問するたびに、必ず詣でる場所が、2か所ある。1つは、「ニュートンのリンゴの木」である。ケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジ(Trinity College)の正門の前の向かって右手前の前庭にある。実は、いま猛威を振るっている新型コロナウイスの先輩格にあたるペストとこのニュートンのリンゴの木には不思議な因果関係がある。

実は、ニュートンの時代。いまから355年も大昔の1665年には、腺ペストが流行していた。このためケンブリッジ大学が一時休校となった。1665年に休校になり1667年に再開されるまでの期間をアイザック・ニュートンは、『創造的休暇』と呼んでいる。なぜなら、実は、この時期、ペスト疎開で、ニュートンはリンカーンシャーの実家に戻って2年間を過した。そこで、落ちるリンゴを見て「万有引力の法則」をひらめいたのだ。なんと、微分・積分をこの時期に思い付いたそうだ。

ペストの副産物だ。新型コロナウイスのいまの時期、学生諸君が、自宅で蟄居している状態と似ている。いつも、山岡は、本郷の教室で、学生諸君に、「諸君はニュートンなのです。」と呼びかけ、みなさんも、この創造的休暇に、ニュートンになる可能性があると、激励している。

英国ケンブリッジで、必ず詣でる場所の2つ目が、ケンブリッジ駅から大学に向う途上にあるハーヴェイロード(Harvey Road)6番地にあるケインズ(John Maynard Keynes)の旧居だ。最初にハーヴェイロード訪問したのは、まだ学生時代。40年以上前のことだった。山岡は、大学院博士後期課程(修士課程)に進学し、執筆した修士論文の『貨幣と価値-非模索的経済における貨幣の位置-』の軸は、かの『一般理論(The General Theory of Employment, Interest and Money)』でJohn Maynard Keynesが論じた貨幣理論の再評価であった。

当時は、マネタリズム全盛期で、ケインズ批判も激しく、その議論の中で、On Keynesian Economics and the Economics of Keynes: A study in monetary theory (1968年) を書いたレーヨンフーブド(Axel Leijonhufvud)らによる「ケインズ再解釈」という新しい研究方向に同期した、新古典派統合への批判を軸としたケインズの貨幣理論の再評価議論を展開し、修士論文を書き上げた。Walras流の模索過程(tâtonnement process) は完全競争経済の価格調整過程として非現実的であり、より現実的な調整過程を構築するためには,非模索的経済(non tâtonnement economy) における不均衡下の現象を明確に把握すべきで、その貨幣的本質を最初に喝破したケインズの『一般理論』の再評価論を展開した。

思えば、最初に『一般理論』の原書を買ったのは、学部のバンカラ学生時代で、日本橋の洋書店「丸善」本店だった。あれ以来、『一般理論』との長いお付き合いが始まった。『一般理論』について、かつてポール・サミュエルソンは、「南海島民の孤立した種族を最初に襲って、そのほとんど全滅させた疫病のような思いがけない猛威をもって、年齢35歳以下のほとんどの経済学者をとらえた。50歳以上の経済学者は、結局、その病気にまったく免疫であった。」と語っている。

ちなみに、蛇足ながら、ケインズの論敵であったかのフリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク(Friedrich August von Hayek)とは、来日中の彼の講演会で、楽屋に押しかけて挨拶したことがあった。あの日彼にもらったサインはいまでも記念として書架にある。たまたま日本橋の洋書店「丸善」本店で『一般理論』の原書を買った当日であったことも、何かの因果かなと思っている。

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(次章に続く)

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