ワルキューレの微笑 ~ある地球環境学者の鎌倉日記~ 作:古屋 力

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2022.7.5 掲載

18. 追憶

病室で、偶々、ラジオで、スペイン民謡『追憶』という歌を、久しぶりに聴いて、心が震えた。山岡が初めて聴いたのは、中学生時代であった。懐かしくも甘酸っぱい思いが込み上げてきた。暮れなずむ校庭でたたずんでいたら、遠く音楽室からこの曲の合唱が聞こえてきた。美しく、それでいて深い翳りを感じさせる旋律に感動した。

星影やさしく またたくみ空
仰ぎてさまよい 木陰を行けば
葉うらのそよぎは 思い出さそいて
澄みゆく心に しのばるる昔
ああ なつかしその日

さざ波かそけく ささやく岸辺
すず風うれしく さまよい行けば
砕くる月影 思い出さそいて
澄みゆく心に しのばるる昔
ああ なつかしその日

追憶01

原曲は、アメリカの讃美歌『Free as a Bird』で、詩は、明治大学国文学教授の古関吉雄により作詞され昭和14年に発表されたことを知ったのは、ずいぶんと後のことであった。曲もさることながら、古関吉雄の詩がよい。日本人はこうした豊かな詩情を持っている。そんな日本人が、なぜ、必ずしも、ゆとりある心豊な人生空間を担保できてこなかったのだろうか。日々に忙殺され、ただただ物質的な豊さの追求に汲々としてきた中で、すべての価値基準と判断が経済的価値のみに依存し過ぎてしまったことに起因しているのかもしれない。

この世には金融的価値で評価できないかけがえのないものがいっぱいあるにもかかわらず、自然や隣人への謙虚さや慈しみや、家族の団欒や他者への慈しみ等の人間同士の真摯な向き合い方が決定的に欠落しまっていたからではなかったか。われわれは、未来ある若者のためにも、しっかり心豊かな幸福な日本の仕組みを再構築して、引き継いでゆかねばなるまいと、山岡は思っている。

言うまでもなく、われわれ人類の社会経済システムは、広大な地球環境の中の、人類というささやかな種の中でだけ通用するきわめてローカルな固有種間の脆弱な約束事でしかない。ましてや、経済的な矛盾に派生した不毛な自然破壊や戦争なんて愚の骨頂である。広大無辺な地球環境から見れば、生物種の一種にすぎない人間間の約束ごとにすぎない金融経済の損得勘定なんて噴飯ものでしかない。人類社会は自然の中の一部であって、人類社会の中に自然があるわけではないのである。

かつて、生物学者レイチェル・カーソン(Rachel L.Carson)は「私たちは、いまや分かれ道にいる。長い間旅をしてきた道は、すばらしい高速道路で、すごいスピードに酔うこともできるが、私たちはだまされているのだ。その行きつく先は、禍いであり、破滅だ」と語り、いままで無頓着に地球環境を破壊し続け、散々、汚染し続け、性懲りもなく大量生産、大量消費、大量廃棄を繰り返してきた人類の愚行に対し厳しい警告を発した。そして「別のもう1つの道」が、人類に残された最後で唯一のチャンスだと示唆している。

追憶02

はたして、「別のもう1つの道」とは何か?きっと、それは、姑息な金融経済の損得勘定から卒業した「人間と地球環境に優しい持続可能な人類社会」への道であるにちがいない。コロナ禍の気候危機時代に、世界が「文明史的転換点」にあるいまこそ、世界有数の課題先進国日本の「人間を幸福にしないシステム」を早急にリセットさせ、人間と自然にやさしい新しいプラットフォームに再起動をするタイミングであると考える。

地球環境と人間の尊厳がともに深刻な危機に直面しており、すでにpoint of no-returnを超えてしまっている。気候変動問題、福島原発事故、食糧危機、大気水汚染問題等深刻な諸問題は、貪欲な資本主義システムに起因しているとの指摘がある。いまこそ、人類は、自らのgreedyで過剰な経済活動が地球環境と人間の尊厳を毀損していることに気づき、行動に移すべきである。

もはや、時間の猶予はない。人類にとって、従来型の社会経済システムを抜本的に変革し、まったく新しい地球環境と人間にやさしい持続可能な社会システムへのパラダイムシフトを実現することが、喫緊の最重要課題である。

鍵は「定常型社会」にあると、山岡は思っている。一言でいうならば「経済成長を絶対的な目標としなくても十分な豊かさが達成されていく社会」のことである。この定常型社会ということをこれからの社会の基本的な姿ととらえることで、私たちは「成長し続けなければならない」という根拠のない前提から解放され、無用の落胆や多くの意味のない政策から自由になることができるのである。

いや、これが、「人間と地球環境に優しい持続可能な人類社会」の実現の最後のチャンスかもしれない。それだけに現代世代に生きるわれわれの責任は重い。そして、未来を担う次世代の若者に、その「別のもう1つの道」に続く新しいプラットフォームを引き渡すことが、われわれの使命ではないか。

この好機を活かさなかったら、われわれの世代は、おそらくきっと「あの時、なぜ別のもう1つの道に踏み出せなかったのか」と、後世の人類から、永遠にその無作為の罪を厳しく問われ続けるに違いない。それでは、はたして「別のもう1つの道」すなわち「人間と地球環境に優しい持続可能な人類社会の実現」は本当に不可能なのか?それとも、これは虚しい夢想に過ぎないのか?

(次章に続く)

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