2.3 「環境パフォーマンス」;脱炭素社会構築に向けた抜本的社会システム改革を

去年2023年12月3日、アラブ首長国連邦のドバイで開催されている第28回国連気候変動枠組条約締約国会議(以下、COP28と略)にて、日本が「化石賞(Fossil of the Day)」[1]を受賞した。

2022年のエジプトのCOP27においても、世界で最大の化石燃料への公的支援を理由に「化石賞」を受賞したのに飽き足らず、日本は再び「化石賞」を受賞したのである。会場で、岸田首相は日本政府の火力発電水素・アンモニア混焼戦略が「世界の脱炭素化に貢献する」と宣言し、環境にやさしいとアピールした。しかし、市民社会は、日本政府の試みが日本やアジアの石炭・ガスを延命しようとしていることを見抜いていた。化石燃料への水素・アンモニア混焼は「グリーン・ウォッシュ」[2]でしかない。現に、2023年3月に公表された研究論文「Banking on Transition Technologies: Beware of Lock-In Traps」(March 2, 2023 ;Asia Research and Engagement)では、日本政府が提唱している火力発電水素・アンモニア混焼戦略が脱炭素戦略を妨げる危険性があると警告を発している 。

グテーレス国連事務総長をはじめCOP参加国の首脳の多くは、2015年に採択された「パリ協定」が目指す「世界の平均気温上昇を1.5℃以下に抑える」という目標を達成するため、石炭火力の廃止を推し進めるべきだと強く主張している。この真摯なメッセージを、日本政府が真正面から受け止めているとは、思えない。

あまりに世界の潮流に鈍感で、解像度が低劣であることの証左でもあるとも揶揄されているこの日本政府の打ち出した愚策は、火力発電所を将来に渡って稼働させ続け、実質的な排出削減にはつながらないどころか、日本のエネルギーの脱炭素化と化石燃料フェーズアウトの可能性を潰してしまう。その事態の深刻さの自覚がないのか。しかし、気候危機が終盤戦(endgame)に入りつつある中で、現下の日本政府の気候危機への方針に対して、かように世界の市民社会が厳しい評価を下していることの重大さに気付いている日本国民は、まだ多くはない。ほぼすべての先進諸国が、期限を定めて石炭火力発電廃止宣言をしている中で、石炭火力発電廃止を、期限を定めて宣言していない国は、日本だけである。これは、実に恥ずべきことである。

2035年までに温室効果ガス60%削減達成が不可欠なこのご時世で、いまだに、石炭火力維持に汲々と拘泥していることは、狂気の沙汰である。

こうした政治理念の不在、解像度の低さ、行動力と責任感の欠落に対して、世界中から厳しい軽蔑の視線を集めているという深刻な事実を、日本の為政者は、自覚していないのであろうか。

この10年間に行う対策の成否如何は、現在から数千年先まで影響を与えると言われている。この不作為のままでは、温暖化が加速し、海面が2150年までに5mも上昇するという科学者の研究報告も発表されている 。東京も大阪も、鎌倉も、その市街地の大半が水没することが、現実になる。すべて自国に降りかかる災いなのである。そして、海面水位上昇に加え、干ばつ等様々な影響で、世界で20億人以上もの人々が住む場所を失う。

そんな中で、とりわけ率先して脱炭素化が求められる立場にある先進国の一つである日本が、こともあろうか、時代に逆行して、石炭火力の必要性を主張し続けている。地獄への悪魔の道をアクセル全開で踏み続けているのである。日本が石炭火力に固執すること自体は、こういった事態を加速する加害行為に他ならない。はたして、こういった加害意識の自覚が、現政権の為政者の心中にあるであろうか。あるいは、それも感じないほど鈍感なのか。

要は、日本政府にとっては、気候危機の深刻なダメージを被っているグローバルサウスの悲劇や、7世代先の人類の持続可能で安寧な幸福のことよりも、目下政権を支持している経済界の意向の方が最優先なのであろうか。目先の選挙で勝てれば、現政権さえ当面維持できさえすれば、自己保身さえ担保さえできれば、世界中の人々が飢えに苦しみ、住む場を追われ、子孫が気候危機のために生存権さえも失うことは、そんなことは、どうなっても、どうでもよいことなのであろうか。不都合な真実から視線を逸らし、近視眼的な視野狭窄に陥ってしまい、目先の利得優先で、理念なんて放棄してしまっていることに、忸怩たる思いはないのか。良心の呵責はないのであろうか。

そんなことでは、当然世界から厳しい目を向けられることは自明であろう。このままでは、これからも、「化石賞」の常連国として不名誉な歴史を更新してゆくことになるであろう 。これでは、世界から尊敬を集められる国になれないのは当然である。世界は、既に、日本政府の悍ましいほどの空虚な欺瞞と姑息さを、そして、その精神の貧困を、しかと見透かしてしまっているのである。

日本の為政者は、こうした恥ずべき事態が意味していることの深刻さをしっかり自覚すべきであろう。昨今、意図的にメディアで喧伝されている、白々しい「日本は素晴らしい」キャンペーンが、なんとも空虚に聴こえる。日本が、「グリーン・ウォッシュ」という姑息な自己欺瞞から卒業して、世界中の人びとから尊敬される真の環境先進国に脱皮するのは、いつなのだろうか。むろん、日本でも、「グリーン・ウォッシュ」とは一線を画して、脱炭素社会構築に向け真摯な取り組みを続けてきた多くの志ある政治家や民間企業の自発的な行動があることは、彼らの名誉のためにも、あえて、ここで明確に付記しておきたい。この粘り強い行動に対しては敬意を表し高く評価したい。そこに一縷の希望があるとも思っている[3]

すでに、日本は、遅ればせながら、2020年に「ゼロカーボン宣言」を宣言し、2050年までに排出量の実質ゼロにする約束を掲げている。これは、逃げも隠れもできない言い訳無用の、いわば世界公約である。

その世界公約の実現達成には、100%再生可能エネルギー化を目指すエネルギーシフトの完遂が急務であるが、しかし、はたして、その実際の進捗状況は、なかなか、はかばかしくない。依然として、わが国は、こともあろうか、石炭と原子力に未練たらたら依然固執汲々としている。政府の打ち出す実際の具体的な政策を詳細に分析してみると、どれも中途半端で、残念ながら、そこに、日本の本気度のなさと、限界が露呈してしまっている。やってるふりだけでは困るのである。これでは、「羊頭狗肉」と批判されてもいたしかたない。このままでは、日本の将来は暗い。

加害者である先進国日本が、こうした気候危機に対する当事者意識を諸外国と共有ができるか否かは、わが国が、真の「気候正義(climate justice)」を持っているかに依る。これは、日本の信頼性を問うリトマス紙でもある。

はたして、日本に、この肝心の「気候正義」があるのか?はたして、いまの、日本の為政者と企業経営者は、真剣に、ことの重要性を「自分ごと」として認識し、7世代先の人類全体を含めた持続可能な安寧と幸福を念頭に、大局観にたって判断し、行動しようとしているのであろうか?

あるいは、当面の目先の自己保身だけで、できない理由ばかり並べあげて、言い訳の先取りと問題の先送りいう、もっとも姑息で低劣な思考回路に閉じこもってしまっているのであろうか。もしそうであるならば、事態は深刻だ。日本のお先は、真っ暗だ!

2021年秋、英国グラスゴーで、エリザベス女王は、COP26(気候変動枠組条約締約国会議)に参加した各国首脳に向け「一時的な政治の枠を超え、真のステーツマンシップ(statesmanship)を」と呼び掛けた。ステーツマンシップとは、私利私欲にとらわれず,国家の十数年後の目標を考え,強い責任感・倫理感で行動する政治家精神のことである。とりわけ、現下の深刻な気候危機打開にとっては、自国の国益のみならず、グローバスサウスの窮状も視野にいれた全球的ビジョンと、7世代先の子孫の幸福をも視野にいれた、「時空を超えた高い理念と大局観」が求められている。エリザベス女王が言いたかったことは、まさに、そのことなのである。なぜなら、真のステーツマンシップ無くして地球温暖化問題には解がないからである。

わが国の為政者にも、心静かに自分の胸に手をあてて、はたして、真のステーツマンシップを自分はもっているのか否か、謙虚に自問自答してほしい。そして、もし、政治家としての矜持をお持ちなら、コロナ禍の気候危機時代は、むしろ、明るい未来を構築する空前絶後の好機であると考えてもらいたい。政治家の本業は、選挙区の支持者の冠婚葬祭に留意することでも、地元民の意向を汲んで利益誘導することだけでもなかろう。

いま人類がとりくむべきは、脱炭素社会(The decarbonized society)構築に向けた「人類社会全体の根本的なアップデート」であり「トランジションデザイン(Transition Design)」の具現化である。そのためには、アフター・コロナ時代を視野に、地球市民として人類の「価値変容」と「行動変容」が、いまこそ求められている。そして、健全なステーツマンシップに担保された有効に機能する民主主義システムが、切望されている。

もっとも「価値変容」と「行動変容」が、真っ先に求められているのは、他ならぬ、政治家諸氏であるが。

はたして、日本には、その確固とした「トランジションデザイン」があるのだろうか。そして、その「トランジションデザイン」を主体的に描き、率先垂範して実践する、まっとうなステーツマンシップに裏打ちされた政治家がいるのだろうか。そして、健全かつ有効に機能する民主主義システムが、存在しているのだろうか。

むろん、脱炭素社会への転換と言う「トランジションデザイン」の実現のためには、多方面で多大な負担が伴うが、この大きな変化を従来型の民主主義システム内で進める場合、合意形成がなかなか困難なことは確かである。こういったダイナミックな転換を現下の従来型の民主主義システム内で進めることは、なかなか難しい。

脱炭素社会への転換は必要なことであるが、どんな方法で行われるにしても、大多数の人の生活に著しい変化を生じさせ経済社会のあり方を劇的に変容させる。いかなる方針や方法でそれをいかにして実現すべきかについての広範な合意形成を、異なる立場の人々が参加してじっくり議論を行いながら丁寧に進めることが欠かせない。それには時間を要する。

しかし、切迫した喫緊の課題出る気候危機の残り時間を考えると、あまり悠長なことも言っていられないことも確かである。さはさりながら、現下の選挙制度を基盤とした間接民主主義システムでは、上記諸点に鑑み、毅然としたドラスチックな「トランジションデザイン」の遂行完遂は、期待薄である。

全ての政治家がそうだとは言えないが、残念ながら、自己保身に汲々とし、次期再選しか脳裏になく、集票マシンに堕した政治家も一部散見される。選挙地盤の利権に毒された政治家も大同小異おり、選挙に当選さえすれば、公約前言撤回は茶飯事であり、日本国民も、政治への期待を、なかばあきらめている感じすらある。そこには、なかなか健全な理念と矜持を実装した真のステーツマンシップが担保されているとは言いがたい悲しい実情がある。

既存の代表制⺠主主義は、機能不全に陥っている。そして、残念なことに、気候変動対策との相性が悪い。現下の民主主義システムでは、⻑期的な課題、世代や国境を越える問題は後回しになりがちである。気候政策を阻害・遅延させようとする既存の利害に影響を受けやすい難点がある。市民の代表である政治家と⼀般の市井の⼈びとの間に⼤きな⽴場の違いがあり、意識や関⼼にギャップがある。困ったことに、かくもさように、「気候危機」と同時に、「民主主義」も危機に瀕しているのである。なんとも悩ましいジレンマがそこにある。

この問題の本質は、主権者たる国民の総意と政治との乖離にある。要は。一応選挙制度はあるものの、一旦当選した政治家は、在任期間中は、よっぽどのことが無い限り、公約を棚にあげて、公約した政策の必達よりも、次期選挙の自己の当選可能性を高めることに注力する傾向がある。つまり、自己保身に汲々とし、次期再選しか脳裏になく、集票マシンに堕した政治家が多いのである。選挙地盤の利権に毒され、冠婚葬祭といった地元有権者のご機嫌取りに終始し、全球的な気候変動問題等の地球環境問題は二の次になる。

それでは、かような悩ましい状況に対し思い切った刷新を実現するには、どうしたらいいのか。

むろん、欧州で始まった「気候市民会議(climate citizensʼ assemblies)」等に象徴される「気候民主主義(Climate Democracy)」の動きを日本にも導入するのも一考であるが、この実現には、国民全体の意識改革も鍵となり、なかなか、一朝一石に構築できるものでもない。むしろ、こうしたモメンタムに期待しつつ、同時に、現下の政権の「環境パフォーマンス」を客観的に評価し、不作為に対して制裁を与える仕組みを構築するのも有効な手段であろう。

もはや、待ったなしの脱炭素社会構築に向けた抜本的社会システム改革を加速・促進するためにも、「温室効果ガス排出量」「徒歩、自転車、公共交通機関を利用した移動の割合」「再生可能エネルギー設備導入容量(MW)推移」「大気中の二酸化窒素(NO2)汚染レベル」「生物学的多様性の状況」「積極的な地球市民活動」等々の具体的なチェックポイントを客観的指標で掲げ、選挙において、こうした要件の遂行を政治家にコミットさせ、在任期間内に履行できない場合、議員は、約束不履行として、直ちに次期選挙での立候補権を剥奪する等の方法で、不作為の罪を問い、議員ステイタスの持続可能性を剥奪する仕組みである。そして、こうした評価をガラス張りにし、説明責任を義務化した形で監視すれば、為政者も、問題の先送りも責任転嫁も、もはや不可能であろう。


次章:いまこそ「未来世代法」の立法化を(7)

[1] 「化石賞」は、気候変動交渉・対策の足を引っ張った国に毎日贈られるもので、その国に対する批判と改善への期待の意味が込められている。化石賞を主催するClimate Action Network(CAN:気候行動ネットワーク)は、130カ国の1800以上の団体からなる世界最大の気候変動NGOネットワークであり、世界各地で活動するNGOが受賞者を決定する。

[2] 「グリーン・ウォッシュ」とは、うわべだけ環境保護に熱心にみせることを意味する。「グリーン(=環境に配慮した)」と「ホワイト・ウォッシング(=ごまかす、うわべを取り繕う)」を合わせた造語である。Greenpeace(2023)“Greenwash: what it is and how not to fall for it”

[3] Japan Climate Leaders’ Partnership (2023)” Statement on the Transition to Zero Emission Commercial Vehicles” (https://japan-clp.jp/en)