(4)通貨の本質と闇 ~資本主義の宿痾の根源についての考察~

1)資本主義の宿痾と「通貨」の本質

結論から言うと、実は、資本主義の宿痾の根本原因は、「通貨」にあると考える。よって、「通貨」の根本治療が、急務であると考える。

どんな対処療法を駆使したところで、「臭いものは元から絶たなきゃだめ」なのである。「通貨」の根本問題に、思い切ってメスを入れない限り、資本主義に内在する宿痾も完治しないし、その派生としての格差・貧困問題も、気候危機や生物多様性等の地球環境問題も、抜本的解決の目途はつかず、永遠と不毛な堂々巡りが続き、結局は、やがて、人類は、破綻へのマイナス・スパイラルに陥ることになろう。

それでは、「通貨」の何が問題なのか?そのためには、そもそも、「通貨」とは何かを認識する必要がある。実は、専門家内でのコンセンサスだが、「通貨を誰もが通貨として受け入れてくれる」という一種の「社会的な思い込み」のみで機能しているというのが「通貨の本質」である。「貨幣とは貨幣であるから貨幣である。」という、木で鼻を括ったような一種の自己循環論法で、通貨は定義される。

本来、通貨には、「価値基準」と「交換手段」としての機能がある。原始的で非効率な物々交換に伴う不都合を解消する「交換の一般的媒介」としての便利な機能を持っている。やや専門的な説明をすると、通貨は、「欲求の二重の一致問題[1]」の解決を通じて、「情報の非対称性」と「情報の不完全性」問題を解決するための優れた文明の利器であると説明されている。自分が供給できる財の買い手と、 その主体の需要する財の売り手が一致することが困難である問題が、通貨の登場によって解決できる。換言すれば、通貨は、情報不足により的確な情報をタイムリーにうまく使えない物々交換の不都合から生じた解決手段であった。通貨は、時間が経過しても腐敗せず、減価もせず、保存費用もかからないという特製のそのおかげで、好きな時に、好きなモノを買える便利な道具であった。また、買い物に使わない時は、時間を超えた保存手段として、買い物に使うまで使用を猶予して待機できる便利さがあった。こういった便利な通貨への選好を「流動性選好(Liquidity Preference)」と呼ぶ。

通貨のもう1つの特徴は、「価値保存機能」をもつことだ。元来モノを買うための価値尺度と交換機能を持つ道具であった通貨について、その後、人々は、通貨の便利さ以外に、その保有自体に魅力を感じるようになってくる。つまり通貨保有自体が、自己目的化したのである。こうした人々の通貨を保有する欲望を「資産選好(Asset Preference)」と呼ぶ。金利があれば、そのままほったらかしておいても、保有するだけで、通貨が自然と価値増殖してゆくのであるから、さらに人々は通貨保有欲を喚起された。

元来、交換のための単なる媒介手段でありながら、その便利さゆえに、皆から果てしなく欲望され、さらに通貨を所有することで、価値増殖の魅力も付加され、いろいろな可能性を秘め、通貨の所有欲は、飽和することなく延々と続く魔力を纏う。その結果、多くの人々が通貨を保有し続けたいと欲すると、経済全体の総供給は総需要を上回ってしまい、不況となる。究極は、大不況となる。逆に多くの人々が通貨を取り崩して消費しようと欲すれば、総需要は総供給を上回ってしまい、インフレーションとなってしまう。究極はハイパーインフレーションに陥る。

それでも、人々の通貨の価値増殖への嗜好は続き、通貨に翻弄される。そして、増殖をすればするほど、通貨は、実態経済と乖離してゆく。通貨は、その自己増殖性の本質ゆえに人々を駆り立て、成長と競争を急がせる。それがエスカレートし、挙句の果てに、資本主義経済は破綻する。その乖離の怖さとリスクは、すでに多くの史実が証明している。人は、通貨に魅了され翻弄され罠に落ちるのである。つまり、人々に、交換の自由を与えた通貨は、同時に、資本主義経済に本源的な不安定さも与えてしまっているのである。

モノへの欲望は限りがあるが、可能性を化体した通貨に対する欲望は無限である。留まるところを知らない。そして、資本主義の発展に伴い、モノよりカネという本末転倒が起こる。無節操に資産選好が膨れ上がってゆく。通貨の誕生によって、人々は無限への欲望を手にしてしまい、結局、それが仇となる。そして、経済成長が進んで、豊かになった成熟経済では、さらに資産選好が膨張してゆく。そこに弊害が起こる。この資産選好によって、経済全体で生産されるモノの総価値からカネの総価値が乖離する。そして、実態経済が停滞していてもカネの価値だけが膨張することが起こる。これを「バブル」と呼ぶ。

確かに、通貨は、便利ではあるが、万能でも無害でもない。むしろ幻想にも近い無限の可能性を化体した抽象的な存在であるゆえに、有害ですらある。モノの次元での多様性を、すべて統一してしまう抽象的な価値としての通貨の誕生と利用が、人類史上最初に全面的貨幣化をしたギリシャの都市国家の時代以降、今日に至るまで、人類社会経済システムにおける悲劇と喜劇の源泉となった。本来、他者と善く生きるはずの人類の共同体において、幸か不幸か、通貨というマジックが登場し、人類が、無限の可能性への欲望を持ったことによって、通貨の増殖それ自体を目的にする経済活動が蔓延し、定常化した。この結果、過剰な通貨愛と資産選好ゆえに、総需要不足が発生し、長期経済停滞やデフレが発生したりして、社会経済システムが不安定化し、人類が右往左往することになる。また、同時に、通貨は、人々の間に「格差」を生み出す。貧しい人々は、資金的な余裕がなく、生活支出に費やすのが精いっぱいで、資産選好はゼロに近く、いつまで経っても貯蓄はゼロのままである。方や、豊かな人々は、消費を上回る資金が手元にあるので、資産選好が旺盛で、時間とともに、貯蓄が貯まってゆく。そして、金利があるために、何もしないうちに、資産は自己増殖し、増加してゆく。その結果、資産格差はどんどん拡大してゆく。かくして、制御の効かない資産選好は、長期不況や格差拡大による深刻な社会的不安を生み出してゆく。


[1] 「欲求の二重の一致問題」とは、各経済主体にとって、 自分が供給できる財の買い手と、 その主体の需要する財の売り手が一致することが困難である問題。その問題が、通貨の登場によって解決し、貨幣の存在によって、経済活動は便利かつ円滑に行うことができる。昔は物々交換だったものが、そのことに限界が来たので、貨幣経済になっていった事情がある。なお、人々が貨幣を受け入れるのは、貨幣自体の価値的な根拠ではまったくなく、受け入れられてきた事実性(慣習)と、将来も皆が受け入れるであろうという漠然とした根拠のない予期による。ちなみに、昨今のIOT等の情報技術の発展によって、貨幣経済以前の物々交換の世界も可能になってきたことは興味深い。物々交換の課題だった「欲求の二重の一致」問題がインターネットによって解消されるからである。

2)「通貨」の増殖性

通貨は、人類が発明した不完全な文明の利器であり、その「増殖性」ゆえに、危険でやっかいな道具でもある。必ずしも、「情報の非対称性」と「情報の不完全性」問題を完全に払しょくできる便利な解決策ではなかった。むしろ、資産選好という属性ゆえに、長期不況や格差拡大による深刻な社会的不安を増幅する弊害があった。

その抽象性と便利さゆえに、非対称で不完全な情報を具現化し、greedyな本質を持つ人類の業を具象化した「通貨」から様々な諸問題が惹起している。資本主義システムが内包しているすべて諸問題の元凶だとは言えないが、実は、その重要な問題の多くは、「通貨」の存在に起因している。情報の非対称性の問題は多くの経済取引において、非効率性を発生させる源泉となり、不況や格差等の諸問題の多くは、通貨の存在に起因しているのである。

逆に言えば、地球環境問題の視点から見ても、仮に上述のような、CDP(Carbon Disclosure Project)のような環境NGO等の活動がさらに奏功し、同時に、TCFDやTNFD等の世界基準が、世界中に浸透して、大きな効果を上げたにしても、それだけで、現下の人類社会経済システムにおける「外部性」問題や、「情報の非対称性」「情報の不完全性」の問題が完治するわけでも、気候危機等のリスクが最小化する保証されるわけでもない。加えて、資本主義システムにおける宿痾の完治は程遠いといえよう。その増殖性という根本問題を内包する通貨にメスを入れない限り、抜本的解決には至らないだろう。

そもそも「通貨」の病的な「増殖性」という属性を露骨に担保しているものが、複利等の「金利」である。資産選好という属性が金利によって担保され、自然界ではありえない時間の増加関数として「増殖」する「通貨」の異質な属性を担保している。「自然資本」は、有限で、減価する。時間とともに腐敗し価値は劣化する。しかし、人間が創造した「通貨」だけは、無限で、自己増殖し膨張する。「通貨」は、自然界にはない異物であり、健全な身体に巣くう一種の癌みたいな不健康なやっかいな存在なのである。その意味で、人類が創造した「通貨」は、そもそも、その増殖性ゆえに、元来、地球環境とは相いれない存在なのである。

現下の人類社会経済システムの根底に巣くっている「増殖性」の根本問題を最終解決しない限り、有限な地球環境における人類の活動の増殖性リスク制御の可能性が見えてこないことを意味している。やはり、「通貨」の本質まで議論を掘り下げて、その処方箋を描かない限り、所詮、対処療法でとどまってしまうのである。

むろん、通貨がすべての元凶だと言うつもりはないし、この通貨の問題を解決すれば、現下の人類社会システムが内包している問題がすべて解決するとも断言できない。しかし、いずれにしても、「通貨」に内包する時間の増加関数である「増殖性」の闇は深い。この「増殖性」の本質にメスを入れない限り、資本主義の根本問題に解決はできないし、その派生としての気候危機や格差問題にも明るい未来は到来しないとも言える。

その「増殖性」故に、株主等の投資家は企業経営者に対して、毎期毎に売上・経常利益等の前期比右肩上がりの増加を粘着質に要求し続ける。こうした「増殖性」に背中を押され、企業経営者は、地球環境負荷軽減や従業員や家族の幸福の最大化よりも、自社の利益最大化を優先し、法に抵触しない限り、ギリギリの線で、自社の企業価値の最大化を永遠に追及し続ける宿命にある。時にして、企業理念やモラルは疎外され、人権は法的規制ギリギリ範囲まで蹂躙され、地球環境負荷を加速させる。

さらに深刻なのは、日ごろの疎外感を消費行動での充足で穴埋めしようとする市民の心の荒廃と感情の劣化である。かつてトクヴィルが、「問題は、もっぱら物質的幸福を求めることに没頭することで。自分で豊かさを測る物差しを見失い、本来の意味では幸福でなくなることである」と指摘したが、テレビCM等による執拗な消費促進の弊害もあり、人々の健全な感覚が麻痺し、消費・廃棄行動自体が自己目的化し、その為の購入資金獲得の為、さらに仕事に追われ、心の安寧が永遠にもたらされない無限のジレンマに陥る。

現下の気候危機や戦争にも繋がる資本主義システムの諸問題の根底には、この「通貨」の異質な「増殖性」がある。その「増殖性」ゆえに、あらゆるものが、成長を強制させられ、余裕を失う。その結果、市民は、正気を失い、いつも切迫し、物質的消費活動に明け暮れ、心の余裕がなくなり、自分にとってもっとも穏やかで幸福な時空であるはずの最適な均衡点から乖離した不健全な状況で生きことを余儀なくされ、また、企業も、自社や従業員にとって本来の最適な均衡点から乖離した不健全な状況で経営を余儀なくされる。

世界の富の40%を1%の富裕層が保有していることは、あまりに異常である。そして驚くことに、世界の50%の人は貧困層であり、その層は世界の富の1%しか保有していないことが指摘されて久しいが、世界は一向に格差改善の階も見えない。富裕層が、世界の富の40%を所有できるほど有能であることを証明できる根拠もなく、また、貧困層が、世界の富の1%しか保有できないほど無能であることを証明する根拠もない。この格差は、そう考えても不健全である。その格差の根本には、資本主義システムに内包するシステミックな欠陥がある。その欠陥を担保しているのが、「通貨」の異質な「増殖性」である。

そして、その「増殖性」ゆえに、実際に、実体経済の4倍を超すまで肥大化した金融資産に象徴される、行き過ぎた経済の金融化が節操なく膨張しつつある。周知の通り、基軸通貨ドルを梃子に、世界中に過剰流動性が際限なく膨張し、世界中にお金が充満し、マネーゲームの自己増殖は、ICTを実装した金融工学の進化で、もはや制御不可能だ。

人類社会経済を人間の健康に例えるならば、過食と暴飲暴食等の日頃の不摂生で、一種の依存症に陥り、血圧と血糖値が異常な数値を示し、もはや致死的な状況に陥っているにも関わらず、その危険状態を認識すべき脳がやや認知機能障害状態にあり、有効なリスク対応ができず、極めて危険な状況だ。この事態は、まさに始末に負えない果たしない貪欲さを伴う人類の生活習慣病と酷似している。

通貨は血液であり、金融システムは血管やリンパ等の循環器である。その血液が、血糖値が高く深刻な癌に侵されている。そして、血管が、動脈硬化で致死的な危険な状況に陥っている。この深刻な致命的な病変は、単に人類と言う種の絶滅への自滅効果のみならず、人類が依拠している地球環境そのものを蹂躙し、汚染し、破壊して、地球上の他の生きとし生きる生物の多様性を問答無用に駆逐しつあるという二重の意味で、事態は深刻である。

「通貨」の内発的な「自己増殖性」が、現下の資本主義システムのあくなき大量生産・大量消費・大量廃棄を動機付けしている。そして、その留まるところを知らない資本主義システムの「自己増殖性」が、国際通貨危機を惹起し、同時に、格差問題や貧困問題等の配分機能障害のみならず、気候危機やコロナ禍というグローバルな不可逆的な危機を人類にもたらした。

3)アリストテレスの「オイコノミア」と「クレマティスティケ」

かのアリストテレスは、すでに2300年前に、エコノミー(経済)の語源となる「オイコノミア(οἰκονομία)」[2]を「幸せ」や「善」のための経済活動であると定義した。この「オイコノミア」においては、目標は、お金ではなく、「善」であった。その「善」のために、あくまで手段として通貨が使われるのであった。しかし、いまや、それが逆転してしまい、お金を獲得し増殖させること自体が自己目的化してしまっている。これでは、もはや「オイコノミア」ではなく、単なる金儲け「クレマティスティケ(取財術)」である。

アリストテレスの師であったプラトンは、人々が持つ欲望の無節操な膨張を批判し、「どうしても払いのけることのできない欲望は、正当に<必要な欲望>と呼ばれるだろう。‥若いときから訓練すれば取り除くことのできるような欲望、さらにわれわれの内にあって何一つ為にならず、場合によっては害をなすことさえあるような欲望、これら全ての欲望を<不必要な欲望>と言うならば、正しい呼び方である。」[3]と分析し、「欲望」を「必要な欲望」と「不必要な欲望」とに分類し、後者は抑え込むべき有害な欲望とした。

しかし、いまや、この「不必要な欲望」が肥大化し、「オイコノミア」ではなく、「クレマティスティケ」が資本主義となってしまっているのである。「自己増殖性」の魔力が、人々を惑わせ、本末転倒な悲劇が現実となってしまっている。そこに、資本主義の悲劇があり、破綻の元凶がある。


[2] この「オイコノミア」という言葉は、「家」を意味する「oikos」と、「法律・法則」を意味する「nomos」を合成したもので、自分の家産をいかに管理するか、というのがオイコノミアの原義であった。日本語では「家政」という言葉が最も近い。

[3] プラトン(1979)『国家』岩波文庫(下巻;第8巻;p232)

4)宗教と通貨

かつてこの「自己増殖性」の魔力に気づいていたのは、宗教であった。過去の古代宗教は、この根本問題を知っていた。そして、「増殖」つまり「利子」を禁止していた。人類の貪欲な振る舞い、特に金融活動は、時に自制がきかず行過ぎる結果、人や自然環境の持続可能性にとって悪い効果が及ぶ.そこには何らかの抑止が必要である。人類は、その長い歴史の中で、人が地球環境への加害者とならないための仕掛けとして、果てしなき貪欲な振る舞いを抑制する巧妙な仕組みを、宗教というプラットフォームの中に組み入れてきた。

古代キリスト教や、ユダヤ教、イスラム教に底通している金利を禁止する教義がそれである。イスラム教が、「リバー」つまり利子を禁止していることは周知の事実である。このリバーとは、「増殖する」という意味のアラビア語ラバーから派生した語で、単なる利子の概念よりも広い範囲で、不労所得として得られる利益等すべての貪欲な振る舞いに対する抑止となっている。しかし、いまや、宗教の力では、現下の人類社会システムの自己増殖を抑止できていない。それでは、はたして、宗教の力に依存せず、人類の業との呼ぶべき果てしなき貪欲な振る舞いを抑制する巧妙な仕組みを、人類社会経済システムのプラットフォームの中に組み入れる最適な手段は何なのだろうか。いかにしたら、人間社会を、あるべき仕組みに健全化できるのだろうか。始末に負えない果てしない貪欲さを伴う人類の生活習慣病を治せるのだろうか。

次章 (5)新しいパラダイムシフトの鍵 ~「新しい通貨」創造の必然性と要件~
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