「私が欲しいものはあなたには絶対出せない」


(『千と千尋の神隠し』でカオナシが千の欲しいものをあげようとしたとき
千が物怖じもせずカオナシに対して断言した言葉)

1. 日本における「ルサンチマン(ressentiment)」の実相

いまや、最近、目を覆いたくなるような悲しい劣悪なニューズが多い。

中でも、行きずりの見ず知らずの無辜の市民を殺傷する痛ましい事件が目に付く。無差別に他人の車に傷つける姑息な犯罪すらある。八つ当たりだ。被害者にとっては、たまったものじゃない。

世界一安全と言われてきた日本が、いつから、こんな物騒な国になってしまったのであろうか。 そして、そもそも、なぜ、こんな不条理な事件が多発するようになってしまったのであろうか。

その背景には、人々の心に巣くう「ルサンチマン(ressentiment)[1]」の堆積があると言われている。「ルサンチマン」とは、「恨み」や「未消化の怨恨」である。「弱い立場にある者が、強者に対して抱く嫉妬、怨恨、憎悪、劣等感などの織り混ざった感情」で、一言で言うなら「やっかみ」である。

一連の犯罪者の深層心理の根源には「ルサンチマン」があると言われている。彼らは、今の社会の現状に深い鬱屈とした不満と絶望を抱いている。それが、何らかのきっかけで暴発する。

昨今の一連の痛ましい事件は、こうした日本の深層にマグマのように滞留している「ルサンチマン」のほんの一部の噴出にすぎない。顕在化していない潜在的リスクは、その何百倍もあるであろう。

「ルサンチマン」は日本だけなく、世界中で渦巻いている。米国のトランプ支持層の人々も同様である。グローバル経済の競争で負け組になったのは白人の労働者層で米国中西部に暮らす普通の生活感覚を持った人々である[2]。方やエリートや成功者との格差は大きい。いまや、この地球上で、なんともやりきれない「ルサンチマン」が蔓延している。貧相で寒々しい世界の光景である。


[1] 「ルサンチマン(ressentiment)」は、「恨み」や「未消化の怨恨」で、弱者が敵わない強者に対して内面に抱く「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情。弱者の強者に対する憎悪をみたそうとする復讐心が、内攻的に鬱積した心理である。そこから、弱い自分は「善」であり、強者は「悪」だという「価値の転倒」がおこる。デンマークの思想家セーレン・キェルケゴールが想定した哲学上の概念で、フリードリヒ・ニーチェの『道徳の系譜』(1887年)でこの言葉が再定義され、マックス・シェーラーの『道徳の構造におけるルサンチマン』(1912年)で再度とり上げられて、一般的に使われるようになった。

[2] トランプ大統領を支持するアメリカの白人層は、有権者の中で大きな割合を占めている。特に「大卒でない白人」や「白人労働者階級」からは圧倒的な支持を得ている。彼らは「グローバリズムが我々を迫害してきた」という思いが強く、関税を諸外国への懲罰であるかのように見せ悪者への懲らしめだとするトランプ大統領のナショナリズムの発揮を熱狂的に支持している。

2. エデルマン信頼度調査報告書(Edelman Trust Barometer research)

いまや「ルサンチマン」の悪化と同時に、「信頼」の劣化も進行中である。事態は深刻である。

世界各国で政府、企業、NGOなど組織への「信頼度」を測る米国エデルマン社による最新の調査結果「エデルマン・トラスト・バロメーター(Edelman Trust Barometer research)」(信頼度調査報告書25周年記念版)が、先日公表された[3]

28カ国・33,000人超を対象に行われたこの最新報告書2025年版の表題は「不満(Grievance)の危機」であった。25年間にわたる信頼の変化を俯瞰し「この25年間で、世界のあらゆる事象が信頼を圧迫してきた結果、いまや積み重なった組織への不信が、不満と憤りとして噴出している」と危機感を露わにしている。世界中で、人々の “怒りやあきらめ” が社会を形成する主軸になってきているという実に深刻な現実を明らかにしている。これは一種の「ルサンチマン・レポート」である。

以下の【図1】は、人々が政府や企業や高所得者層に対して抱いている不満の実態を示している。世界の6割が「ビジネスや政府は一部の人しか守っていない」と感じている。多くの人々が政府や企業が高所得者層を優遇していると感じて強い不満を感じている実情が浮き彫りになっている。

図1】政府や企業や高所得者層に対する人々の不満の実情
(出所) Edelman (2025)”Edelman Trust Barometer research 2025”


加えて、特に次世代の若年層ほど「怒り」や「不満」、「諦め」といったネガティブな感情を強く抱えている傾向についても分析している。以下の【図2】は、次世代の未来への悲観の実態を示している。「将来は良くなる」と考えている人は36%に過ぎず、多くの先進国で30%以下と厳しい状況を明らかにしている。将来に対する不安・不満感が高まっていることが明らかである。ちなみに、日本で「将来は良くなる」と考えている人は14%であり、残念なことに先進国の中で低位にある。

【図2】次世代の未来への悲観の実態
(出所) Edelman (2025)”Edelman Trust Barometer research 2025”



こうした政府や企業、高所得者層に対する不満、未来への悲観、人々が抱いているグローバル化や技術革新に対する不安感は看過できない。以下の【図3】は、グローバル化や技術革新による雇用不安を示している。グローバル化や技術革新の影響で「自分の仕事が奪われてしまう」という不安感情が高まっており、国内回帰の高まりや、反グローバルや反AI活動を加速させている。

【図3】グローバル化や技術革新が惹起する雇用不安
(出所) Edelman (2025)”Edelman Trust Barometer research 2025”



加えて、深刻なことは、人々の心に巣くう「ゼロサム」的な考え方の広がりである。そして「分断」が深刻化している。以下の【図4】は、「ゼロサム」的な考え方の広がりを示している。世界中の多くの人々は「みんなで一緒に豊かになって行く」という実感がない。むしろ「他人が得をする=自分が損をする」と感じてしまっている。その結果、人心が荒廃し、利己心が増殖し、利他心が衰弱し、協調よりも競争に走ってしまう傾向が、ますますより強くなってしまっている。

【図4】「ゼロサム」的な考え方の広がり
(出所) Edelman (2025)”Edelman Trust Barometer research 2025”



この衝撃的なエデルマン報告書について、さっそく中満泉 国連事務次長・軍縮担当上級代表が、先日5月8日付の毎日新聞のオピニオン面「激動の世界を読む」に寄稿を掲載している。

中満事務次長はこの中で、「現在の信頼危機の状況は(中略)地政学的パラダイムシフトと、すさまじい速度で進む技術革新の中での社会のあり方、政治の役割、いかなる国際協力を保つのかを含めた国のあり方といった視点が必要である」と指摘している。そして、世界全体が信頼危機によって不安定化している中、国連を含め「すべての分野の組織が協力して、再構築に具体的な努力を重ねる必要がある」と述べている。

ちなみに、中満上級代表とは、今年1月30日に東京大学駒場のシンポジウムでお逢いしご挨拶させていただいた。テーマは『人間的な地球社会を目指して』であった。あの日、中満さんが切々と語っておられた「人間の安全保障」の危機に対する緊迫した訴えが脳裏に浮かぶ。

[3] 「エデルマン・トラスト・バロメーター(Edelman Trust Barometer research)」(信頼度調査報告書25周年記念版)は、エデルマン・トラスト・インスティテュートが、去年2024年10月25日から11月16日にかけて、世界の28カ国に対して実施した30分間のオンラインアンケート結果の報告書である。25年間にわたる信頼の変化を俯瞰し「この25年間で、世界のあらゆる事象が信頼を圧迫してきた結果、いまや積み重なった組織への不信が、不満と憤りとして噴出している」と危機感を露わにしている。信頼指数を「不信」(1-49)、「中立」(50-59)、「信頼」(60-100)の3段階に分類しており、日本の信頼指数は37で、世界平均の55よりはるかに低く「不信」に分類され、28カ国中最下位に分類されている。
(出所)Edelman (2025)”Edelman Trust Barometer research 2025”

3.日本の「信頼度」の低劣さと「感情の劣化」という深刻な宿痾

エデルマン報告書では、日本の「信頼度」についての深堀した分析結果も公表している。中でも気になるのは、特に日本における「信頼」の劣化が甚だしい点である。事態は深刻である。

「日本人の6割以上が、企業、政府、及び富裕層に対して不満と憤りを感じている」「変化のためには暴力等の攻撃的行動をも是認する日本の若者層が43%もいる。」「次世代で状況が良くなると考えている人の割合がわずか14%にすぎない」と、日本が直面している将来への閉そく感と、民主的プロセスでは打開できない行き詰まり感に満ちた実情を鋭く分析しており、衝撃を受けた。

この報告書では、信頼指数を「不信」(1-49)、「中立」(50-59)、「信頼」(60-100)の3段階に分類している。その中で、残念ながら、日本の信頼指数は37で、世界平均の55よりはるかに低く「不信」に分類されている。しかも28カ国中最下位である。この分析結果は、日本における「ルサンチマン」の悪化と「信頼」の劣化の深刻度を裏付けている。

はたして、かような日本の「信頼度」の劣化の背景には、何があるのか。

日本の収奪的な社会制度が「格差」を拡大させ、「ルサンチマン」が拡大している。なかなか解決されたい「格差」の現状に深い鬱屈とした不満と絶望を抱いている人々が「ルサンチマン」抱き、それが「信頼度」の劣化につながっている。「ルサンチマン」と「信頼度」の低劣な実態は、コインの表裏関係にある。日本における「信頼度」の劣化と「ルサンチマン」の背景には、多くの人々の心の中で進行中の「感情の劣化」[4]がある。こうした「感情の劣化」は、「他責化」と「他罰化」として顕在化する。一種の被害妄想と責任転嫁である。時に自暴自棄となり、時に移民排除等の差別行動になる。そしてそれをネット環境の「引き籠り・独りよがり状態」が加速させる。これは日本人の精神世界の劣化の帰結としての深刻な病状の寒々しい証左である。

その背景には、グローバリズムやインターネットといった顔の見えない巨大システムへの隷従的依存の弊害がある。そして、その帰結として、人々の「感情の劣化」が進行している。そして「利他心」が衰弱し、目先の損得だけで判断する「損得マシーン」になり下がってしまっている。それが、今や人々から至福感を奪い、精神を蝕み、致命的かつ深刻な宿痾になりつつある。

いまや、近所付き合い等、人々の顔の見える心が通う身近なリアルな対面コミュニケーションが衰退してしまっている。「孤立」と「自閉」が伝染病のように拡大加速している。そして、この「孤立」という精神環境が、インターネットがもたらした「自分が見たいものだけ見る」という自閉的で自己満足的なメンタリティの万延により、さらに劣化し、固定化し、悪化、加速している。

そのまま、いつまでも「見たくないもの」から目を背けていると、自分の中に眠っている他の選択肢の可能性に気づかないまま、独善的で独りよがりな生涯を送ってしまう悲劇がまっている。この「孤立」という伝染病が、いまの日本を覆っている「ルサンチマン」の発生源となっている。

遅くともこれから30年後の2045年にはコンピューターが人間を凌駕すると言われている。計算能力は既に人間を上回り、AIが日進月歩で進化し、ビッグデータを活用することで言語処理能力もかなりのレベルに達した。インターネットの普及に伴い、人間の生来のコミュニケーション能力は年々衰えている。他人と関わらないため、誰かの悲しみを自分の悲しみにしたり、誰かの喜びを自分の喜びにしたりする「共感性」が失われ、「感情の劣化」が進む。「感情の劣化」は、利他心や他者への解像度を衰弱させ、その病状は、すでに深刻な事態まで進行中である。

人々は、かつては、近所の商店街等での触れ合い等、相手の顔や表情が見える人間的で瑞々しい「生活世界」という小さなほっこりしたコミュニティーの中で、日々を全人格的に触れあって過ごしてきた時代があった。昨今は商店街での店主とやりとりはほぼなくなり、コンビニ的空間の中で、煩わしい人間というものを意識せずに、無色透明に生きることができる時代になってしまった。

現代社会は、一見、わずらわしさがない便利な社会になったように見えるが、実は、それは、決して幸福な社会ではない。そして、いつころからであったか、管理と統制の効いた「システム世界」の中に生きざるを得ない時代になった。そこでは、人との関わりで得られる生き生きとした感情を失い、機械のように没個性化・役割化し、ルールとマニュアルの中で「匿名化」していった。システム化が進むことで、共同体の中にあったかけがえのない自分という存在が、「置き換え可能なパーツ」となっていった。そして人々は孤立し「孤独」が増殖した。結果、至福感が喪失した。

そこには「大義」や「仲間」のために、それこそ内発的動機で動く人間はいなくなり、すべて計算と損得勘定が判断基準になった。そして、「感情の劣化」が常態化していった。

人々はインターネットでのコミュニケーションに依存しているおかげで自閉することで表面的には孤独を感じない特別な嗜好を持った仲間同士の安息場を見出す。しかし、実は、そのデジタル空間で感じた仲間意識も連帯感も「カオナシ」的な空虚で不毛な共同幻想にすぎない。そこには、つねに儚さと虚しさが伴う。かならずしも、個々人に幸福や心の安寧を担保するものではない。

こうした「感情の劣化」の常態化と同様に深刻なことは、相容れない人間との「分断化」が着実に進んでいることである。そして、それが政治の変質と劣化を招いている。分断化された人々が、排外主義に囚われ、攻撃的なニュアンスを含んだメッセージにあおられる。理性的な議論がないがしろにされ、「声が大きい人の勝ち」の状況に陥りやすくなるリスクがある。その隙をついて、ポピュリズムが生まれた。その典型的な証左が米国の「トランプ現象」である。

自分の意見を強引に押し通そうとする「声が大きい人」に主導権を持たせないためには、本来は、正しく運営された人々の「信頼」「規範」「ネットワーク」といった協調行動を活発にする包摂的な社会組織「ソーシャル・キャピタルル(Social Capital)」[5]が必要となる。しかし、残念なことに、いまや、この肝心な「ソーシャル・キャピタル」が衰弱し、絶滅危惧種になりつつある。その結果、人々は疎外感を感じ、孤立化が加速し、「全人類総引き籠り状態」「全人類独りよがり状態」に陥ってしまい、「ルサンチマン」が蔓延し、その結果、醜悪な事件が頻発している。

以前は「地域」や「企業」が包摂的な受け皿として「ソーシャル・キャピタル」の役割を果たしていた。しかし、地域は空洞化した。そして企業もソーシャル・キャピタルを維持するコストを割けなくなり、包摂性を放棄していった。次第に人々は無機質な「損得マシーン」に劣化して行った。本来、人の真の幸福にとって大事なことは、「うまく生きること」ではなく、「良く生きること」である。しかし、いまや、多くの人々の中に「うまく生きていきたい」とう思いが蔓延しつつある。不安を避けるために、苦痛がなく、人間的な軋轢もなく、空気を適当に読みながら、ストレスフリーで無難に安楽に生きていきたいと思っている。商店街での店主と会話して家族の近況を聴かれたりするわずらわしさもなく、コンビニ的な無機質な空間の中で、煩わしい人間というものを意識せずに、バーチャルな自閉的な世界に逃避して、無色透明に生きることは、確かに、人間的な軋轢もなく、安楽な環境ではあるであろう。しかし、それだけで本当に良いのだろうか。

[4] 社会学者の宮台真司教授は、「感情的劣化の、目に見える症状が、他責化と他罰化である。言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーンと化すことである。」と喝破している。宮台真司(2022)「人が「損得マシーン」になる理由」

[5] 「ソーシャル・キャピタル(Social Capital)」は、人々が持つ信頼関係や人間関係からなる「社会的ネットワーク」のことである。人々の協調行動が活発化することにより社会の効率性を高めることができるという考え方のもとで、社会の信頼関係、規範、ネットワークといった社会組織の重要性を説く概念である。「人間関係資本」、「社交資本」、「市民社会資本」、「社会関係資本」と訳されることもある。提唱者とされている R.パットナムは「人々の協調行動を活発にすることによって社会の効率性を改善できる、信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴」としている。平たくいえば、信頼、『情けは人の為ならず』『持ちつ持たれつ』『お互い様』といった互酬性の規範、そして人やグループの間の絆を意味している。

4.つくられた格差と不平等の実相

「人心の荒廃」「感情の劣化」、「ルサンチマン」、「政治の貧困」の根底には「経済格差」がある。

世界の民主主義の根幹を揺るがせている「政治の右傾化現象」や「トランプ現象」の元凶は、中間層の衰弱と貧困層への転落である。その原因は、富裕層はますます富み、中間層や貧困層がより貧しくなってゆく不条理な「経済格差」の拡大であり、「不平等」の深刻化である。

それでは、なぜ、富裕層はますます富み、中間層や貧困層がより貧しくなってしまったのか?

その真の理由は何なのか?なぜ、不条理な「経済格差」と「不平等」が深刻化してしまったのか?

この重要な問いについて、かのトマ・ピケティの共同研究者でもあるエマニュエル・サエズ(Emmanuel Saez)とガブリエル・ズックマン(Gabriel Zucman)の共著『つくられた格差;不公平税制が生んだ所得の不平等(The Triumph of Injustice: How the Rich Dodge Taxes and How to Make Them Pay)』が、豊富なデータの紹介や歴史に裏打ちされた分析を通じて答えを出している。

不条理な「経済格差」と「不平等」が深刻化してしまった背景には、富裕層の税負担を重くして、貧困層の負担を軽くする「所得再配分システム」としての「累進課税」の仕組みが瓦解してきた事情があると分析している。

「累進課税」の仕組みが壊れてきた過程には1つのパターンがみられる。

免除や控除の活用、海外での会社設立などを通じて税金を逃れる行為が爆発的に増えると、政府は富裕層をなんとか自国に引き留めようと、富裕層への課税を断念し、税率を下げるようになる。納税を嫌がる人々が節税策を編み出すのに躍起となる半面、政府側では、疑わしい節税取引を調べて起訴するための人材は細り、徴税の限界が浮かび上がる悪循環に陥る。かくして租税回避や自由な租税競争が活発化した結果、程度の差はあれ、大半の国で格差が拡大し、税制の累進性が低下している。そのため世界中どこでも、切実な格差問題が表面化しつつある。

選挙で選ばれた政治家が決めた税制により、ごく一部の富裕層の所得ばかりが増え続ける。労働組合が衰弱し有名無実化する。それと並行して、企業や富裕層からの多額の政治献金によって政治家の企業や富裕層に有利な政策が加速され、税制等で労働者に不利な政策が実施されるようになる。さらにグローバル化により、その勝者だけがかつてないほど低い税率を手に入れ、益々豊かになって行く。グローバル化から取り残された人々はかつてないほど高い税率を課され、益々貧しくなって行く。

こうした不条理な「経済格差」と「不平等」の深刻化で、民主主義が、どんどん、空洞化してゆく。

いまや、新たな税制、新たな協力形態を早急に生み出されない限り、民主主義やグローバル化は21世紀を生き残れない局面に至っている。莫大な資産に課税し多国籍企業からの徴税を強化するという施策の実現は簡単ではないが、諦めれば格差のさらなる拡大を招く。

格差が極端化するのを防ぐためには、21世紀型の新たな税制が必要である。本書は、この改革を実現するための現実的な対策案として、莫大な資産への課税や、多国籍企業からの徴税、万人に医療を提供するための財源確保や累進所得税の再構築などをいくつか提示している。

毅然とした策を打たずに、無策のままこんな不条理な状況を放置していたら、やがて、国家は衰退し、国民は路頭に彷徨う。それは、国家にとっても国民にとっても、悲劇に他ならない。

さもなくば、不条理な「経済格差」と「不平等」がさらに深刻化し、世界中で「人心の荒廃」「感情の劣化」、「ルサンチマン」、「政治の貧困」が加速・拡大し、民主主義は、脆くも崩壊してしまう。

5.「収奪的システム(Predatory Systems)」と国家の衰退の位相

「人心の荒廃」、「感情の劣化」、「ルサンチマン」、「政治の貧困」の元凶は、実は、「経済格差」の培養器である「収奪的システム(Predatory Systems)」[6]にある。「収奪的システム」とは、一部特定の個人・企業・国家が、無辜の市民、労働者、地域、自然、グローバルサウスなどから不当に資源・労働力・富を吸い上げる構造のことである[7]。「収奪的システム」は、国民にルサンチマンを抱かせ、民主主義は空洞化させ、やがては国家の衰退まで招く。「収奪的システム」は、やがて、国家を衰退させる。

この因果律にメスをいれたのが、経済発展や民主制の研究で世界的に知られるマサチューセッツ工科大学(MIT)のダロン・アシモグル(Kamer Daron Acemoğl)教授(政治経済学)である。彼が書いた『国家はなぜ衰退するのか;権力・繁栄・貧困の起源(Why Nations Fail : The Origins of Power, Prosperity, and Poverty )』を読んだのは5年前の2020年春のことであったが、彼は、この中で、以下のような警告をしていた。

「国家が衰退するのには理由がある。既得権益者が富と権力を維持するために制度が歪められ、個人が正当な努力で富を得る機会が制限されるためイノベーションするインセンティブが失われてしまう国家は衰退する。」

この論文の肝は「収奪的システムによる国家の衰退」である。ダロン・アシモグルは、収奪的な社会制度の下では一国は衰退し、包摂的な社会制度でなければ繁栄できないことを明らかにした。まさに正鵠を射た分析だと感銘を受けた。

米国は、徹底した「収奪的国家」である。上位1%の所得層がますます富み、著しい不平等を生んでいる。その結果、米国は、国家が衰弱し、覇権国の地位を追われ、凋落の一途にある。いま我々が目撃している「トランプ現象」は、衰退国家の断末魔の諸相にすぎない。

また、ダロン・アシモグルは、サイモン・ジョンソンとの共著『技術革新と不平等の1000年史』(Power and progress:Our thousand year struggle over technology and prosperity)で、イノベーションで新技術による生産性の向上がおこっても、それが必ずしも賃金上昇に直結しないことを暴いた。

そして、彼は、生産性の向上が生み出した余剰が経済の他部門に振り向けられ、新製品、新産業を誘発してそこにおける新たな労働需要を生み、波及効果で賃金が上昇し生産性の向上の恩恵が労働者に及ぶ「生産性バンドワゴン効果」はないと断罪した。イノベーションによる生産性の向上の恩恵は、一部の富裕層に還元されても労働者には及んでいないと、厳しく切り込んだ。

[6] 「収奪的システム(Predatory Systems)」とは、ある集団が他の集団から強制的に資源や利益を奪い、その集団が利益を享受するような制度を指す。具体的には、中央集権化された政治権力と、特定の層への利益集中などが特徴。つまり、ある集団が他の集団から資源や利益を奪う:例えば、富裕層が貧困層から富を奪い、あるいは特定の企業が経済活動を通して他の企業や消費者を搾取するなど、一方的に資源や利益を奪う構造である。また、中央集権化された政治権力:政治権力が特定の個人やグループに集中し、社会全体がその権力によって支配される状態が一般的である。また、特定の層への利益集中:収奪された資源や利益が特定の層に集中し、社会全体の不平等が拡大する。

[7] 「収奪的システム」は、大企業による非正規雇用の拡大と搾取、水道の民営化等の地方資源や公共財の私物化、環境破壊とその「外部化」、中央集権的な政策決定と地方切り捨て、財界・政治の癒着による利益誘導等をもたらす。

6.日本に蔓延する「収奪的システム」という宿痾の深刻な実情

実は、富裕層はますます富み、中間層や貧困層がより貧しくなってる不条理な深刻な実態は、なにも米国だけではない。日本も同様である。「対岸の火事」ではない。日本における「収奪的システム」の実態も、米国同様に、深刻な事態にある。いやむしろさらに深刻な事態にあるとも言える。

日本では「失われた30年」と言われて久しい。1990年代のバブル崩壊以降、日本経済は長く低成長が続き、デフレーション、停滞に苦しみ、個人所得もほぼ横ばいのまま、実質賃金は先進国中日本だけ横ばいのままむしろ低下したまま今日に至っている。特に2000年代以降は、グローバル化やテクノロジー変化に乗り遅れた感が強く、「頑張っても報われない」という感覚が広がり、それが蔓延している。いまの日本を覆っている「ルサンチマン」の原風景がここにある。

1998年から2023年までの四半世紀で、日本の時間当たり生産性は3割上昇したが、時間当たり実質賃金はこの間、近年の円安インフレで3%程度下落している。方や、米国では生産性が5割上昇し、実質賃金は3割弱上がった。実質賃金の上昇は、フランスもドイツも上昇し、日本を遥かに上回っている。日本だけ、実質賃金が下落している。その根底には「収奪的システム」がある。

以下の【図5】は、日独米仏の時間あたりの実質賃金推移の国別比較を示している。独米仏の実質賃金が着実に上昇している一方で、日本だけ、実質賃金が下落していることが明かである。

【図5】日独米仏の時間あたりの実質賃金推移の国別比較
(出所) 河野龍太郎(2025)『日本経済の死角;収奪的システムを解き明かす』



先日完読した河野龍太郎の『日本経済の死角;収奪的システムを解き明かす』では、日本における「収奪的システム」における病状の実態とその本質を、みごとに的確にあぶりだしていた。

河野氏は、「日本の実質賃金は上がっていない。一方でこの十数年余り、日本の特に大企業の企業業績は毎年過去最高益を続けている。企業の利益剰余金(内部留保)は、1998年当時に120兆円だったが、2023年度は5倍の600兆円まで膨らんでいる。」と現状分析をした。そして「日本の実質賃金が上がらないのは、生産性の問題ではない。日本の問題は、生産性があがっても実質賃金がまったく引き上げられていない点にある。日本の喫緊の課題は、所得再分配である。」と喝破している。効率性は大事だが、労働分配率の低下や格差の拡大が、日本の成長率低下の一因にもなっているのではないかという急所をストレートについた直球の問題提起である。

以下の【図6】は、日本における企業の利益剰余金と人件費の推移を示している。企業の利益剰余金(内部留保)が1980年以降5倍以上に膨らんでいる。その一方で、人件費は、1990年代から横ばい推移である。要は、企業はもうかっても、その太宗が利益剰余金(内部留保)になるばかりで、人件費には配分されていないことが、この図から一目瞭然である。

【図6】日本における企業の利益剰余金と人件費の推移(単位;兆円)
(出所) 河野龍太郎(2025)『日本経済の死角;収奪的システムを解き明かす』



実は、日本も、労働生産性は着実に上がっている。以下の【図7】は、日独米仏の時間あたりの労働生産性の国別比較を示している。緑色が日本で、労働生産性が着実に上がっていることが分かる。

【図7】日独米仏の時間あたりの労働生産性推移の国別比較
(出所) 河野龍太郎(2025)『日本経済の死角;収奪的システムを解き明かす』(注)暦年、1998年=100



以下の【図8】は、日本の生産性と実質賃金の推移を示している。生産性は上がっても、日本の実質賃金は上がっていない。日本の実質賃金が上がらないのは、生産性の問題ではないのである。

【図8】日本の生産性と実質賃金の推移
(出所) 河野龍太郎(2025)『日本経済の死角;収奪的システムを解き明かす』
(注)暦年、1998年=100、生産性上昇率(%)=実質GDP上昇率(%)-就業者数上昇率(%)-労働時間上昇率(%)



日本の実質賃金が低迷している事情は、企業が、生産性は上がる一方で、正規社員の実質賃金の上昇を抑制し、同時に非正規雇用比率[8]を増やし、全体の実質賃金コストを減縮させているからである。

河野氏は、「企業がリスクを取って、人的投資や無形資産投資、人的投資を行わないで、長期雇用制度を維持するために、非正規雇用にすっかり依存するようになり、収奪的な『二重労働市場性』を生みだした」と批判している。実質賃金が抑えられているのは生産性が低いからではない。「収奪的」な社会制度が採られているからであると説く河野氏の解析は正鵠を射ている。まさにご明察である。

「収奪的」とは、成長の果実が一部の人に集中し、社会全体に均霑しない事態を指す。生産性向上をもたらすイノベーションも、その方向性を収奪的なものから包摂的なものに変えない限り、解決策とならないとする河野氏の指摘は、前述したマニュエル・サエズとガブリエル・ズックマンの分析にもアシモグル教授の分析にも通底している。

それでは、そもそも、なぜ、日本は「収奪的社会」になってしまったのか。その元凶は、いまから35年前の1990年代の終わりの不良債権問題と銀行危機まで遡る。当時、金融危機は1997年から98年にかけて頂点に達した。金融機関の経営者や政策当局者の間には手詰まり感が広がった。大企業を中心に銀行のサポートなしでもやっていくために、自己資本を積み上げた。資本を積み上げるためには利益を増やす必要があった。このとき多くの大企業が行ったのがコストカットであった。

コストカットのために、正社員のベースアップを凍結すると同時にコストが低い非正規雇用依存経営にシフトした。これで人件費を抑制して、利益を増やして自己資本を高めた。当時しみついてしまったこうしたコストカットが、自己資本が積み上がって体力がついたあとも、見直されることもなく、イナーシャが働き、漫然とそのまま続けて、今日に至ってしまった。

日本一国全体で企業は時間当たり生産性が30年余りで30%くらい上がっていた。本来なら、それに比例して、労働者の受ける実質賃金も30年くらい前に比べ2~3割上がっていないといけない。しかし、企業は、自己資本が積み上がって体力がついたあと、本来であれば実質賃金上昇を復活すべきタイミングが到来したにもかかわらず、実質賃金引上げをしなかった。また、非正規雇用比率を下げ正規雇用比率を上げることもしなかった。そのままコストカット体質のまま「イナーシャ(慣性)」で、日本の実質賃金は、低水準で放置され続け、今日に至っている。

むろん、経営者にとって、実質賃金を引き上げずに人件費を抑制する一方で、企業配当を挙げ株価を上昇させ、自己資本を積み上げて体力増強を図ることは、ともに自社の持続可能性を担保する意味で有意である。その間、従業員から実質賃金についての強いクレームが起こらない限り、経営者としての評価も担保されるコストカット体制を踏襲し、実質賃金を抑制的な低位推移のまま放置してきたのである。こうした事実上の意図的な所得不均等配分政策は、経営者の不作為の罪を問われるべきだとの厳しい批判も多い。

ちなみに、河野氏は、インバウンドブームを喜んでいる場合ではないと喚起している。多くの海外の人からすると、自分の国では実質賃金も上がっていてその影響で物価も上がっている。でも日本に来てみると、自分の国の25年前とか30年前に戻ったような価格水準であらゆるものが売られているので、日本は素晴らしいと感じる。よって、inboundは年々ますます増加する。これは日本人の労働力を割安に非常に低い値段でたたき売っていることを意味している。気がつかないうちに、日本が「収奪的社会」になってしまった結果、inbound植民地になっているのが実情なのである。

それでは、そもそも、なぜ、独米仏の実質賃金が着実に上昇している一方で、日本だけ、実質賃金が下落したままなのか?なぜ、日本だけ、「収奪的社会」から脱却できずに、「失われた30年」に埋没したまま今日に至ってしまっているのか?

この問いを前にふと思い出す1冊の本がある。旧知のオランダ人ジャーナリストでアムステルダム大学教授のカレル・ヴァン-ウォルフレン(Karel van Wolferen)[9]の『人間を幸福にしない日本というシステム』である。彼とは、面識があり、かつて彼が代表幹事をしていた有楽町の外国人記者クラブ(日本外国特派員協会;FCCJ)で会食したこともあった。その会食の席上、「日本では、官僚・産業界の権力者等をトップとしたヒエラルキーが確立されており、人々は好むと好まざるに関わらず、そのいずれかの階層にシステムとして組み込まれてしまうのはなぜなのか。」「日本に政治的説明責任の中枢が存在しないのはなぜなのか。」「日本では民主主義はまだ実現していない。いぜんとして可能性にとどまっている。公式には民主主義国である日本が、なぜこれほど官僚に支配されつづけているのか。」等の突っ込んだテーマでいろいろ忌憚なく議論したことを思い出す。

この本の原題は「The False Realities of A Politicized Society(政治化された社会の偽りの現実)」で、キー・ワードは「政治化された社会(Politicized Society) 」であった。この本を読むと、日本というシステムがいかに巧妙にできあがっているかがよくわかる。中でも、本書で書かれている以下の彼の洞察は、日本だけ、「収奪的社会」から脱却できずに「失われた30年」に埋没したまま今日に至ってしまっている本質的な理由が分かって来る。この洞察は「ルサンチマン」解明のヒントとなる。

「日本の有害な惰性の原因は、一般の人々があいかわらず「しかたがない」と言い続け、思い続けていることだ。無能な人たちが組織を運営し、構成員の間に無関心が広がっていれば、それは組織の衰退を破滅の決定的な要因となる。組織を運営する者が無能でも、構成員が組織の運命に大いに関心をもち、つねに心配しているなら、なんらかの手段を高じるだろうから組織には再生のチャンスがある。だが、関心をもつメンバーが少なく、全体として十分な力がなければ、組織には再生のチャンスがない。つまり無関心は組織にとって最大の脅威なのだ。」

「強大な権力が公的な権力として規定されないまま闇のなかに据えおかれている度合いや、日本の社会が政治化されている度合い、また官僚の権力が管理されていない度合いは非常に大きく、その点で日本は全く異質である。日本の市民は、官僚が日本ほど放任されている大国はないという事実に気づくべきだ。日本の政治権力は拡散している。政治権力は、官僚と経済界および政界のエリートの上層部というかなり厚い層に分散している。そして、この分散した政治権力が日本の政治システムをつくっているのだが、社会が政治化されているために、人びとは権力がどこから行使されているのか感じ取れない。」

彼が指摘したこうした一連問題の本質は、日本のシステムの中にどっぷりと浸かっていると、なかなか気づかないものであるが、彼が警告しているように、なによりも重要なことは、我々日本人が「しかたがない」と思い続けている「諦念思考習慣」を見直すことから始めることであろう。

いずれにしても明らかなことは、日本における「収奪的システム」が、こうした「人間を幸福にしない日本というシステム」の中で培養され生きのびているという厳然たる事実である。

[8] 非正規雇用労働者は、1984年時点で15.3%であったが、直近2024年は36.8%である。2010年以降増加が続き、2020年、2021年は減少したが、2022年以降は増加している。正社員として働く機会がなく、非正規雇用で働いている者(不本意非正規雇用)の割合は、非正規雇用労働者全体の8.7%(2024年平均)となっている。(出所)厚生労働省(2025)「正規雇用労働者と非正規雇用労働者の推移」

[9] カレル・ヴァン・ウォルフレン(Karel van Wolferen)1941年4月 -、オランダ・ロッテルダム出身のジャーナリスト、政治学者。アムステルダム大学比較政治・比較経済担当教授。2020年時点では同大名誉教授。著書には、『日本/権力構造の謎(原題はThe Enigma of Japanese Power)』、(早川書房、1990年)『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社、1994年)等がある。

7.日本の「収奪的システム」打破のための「最適解」はあるのか

日本における「人心の荒廃」、「感情の劣化」、「ルサンチマン」、「政治の貧困」、「経済格差」の元凶たる「収奪的システム」の打破は、日本にとって、喫緊の最優先課題である。トランプの米国における格差の惨状や混乱もひどいが、日本における「収奪的システム」の弊害はさらに醜悪である。日本だけ、先進諸国中、唯一実質賃金が下落している。この深刻な実態を直視すべきである。

それでは、日本の「収奪的システム」を打破するにはどうすればいいのだろうか?

はたして、この暗いトンネルから抜け出す「最適解」はあるのだろうか。

日本における「収奪的システム」を打破する方策については、すでに様々な先行研究がある。

こうした一連の議論で提言された様々な処方箋の中でも、特に参考になりそうな注目すべき幾つかのヒントとして、以下の8つの材料を列挙しておきたい。


【「収奪的システム」を打破するための処方箋の材料】


1. 税制の抜本的改革

何よりも、真っ先に、着手すべきは、制の抜本的改革である。資本から得られる所得を優遇し労働から得られる所得を不利にしている現下の税制の抜本的改革が急務である。日本だけ、先進諸国中、唯一実質賃金が下落しているという日本固有の「収奪的システム」の弊害を直接的に真正面から打破する処方箋である。現状の富裕層に有利な税制を抜本的に変えて、所得再分配システムを根本から変革することが不可避である。この税制の抜本的改革をさらに有効かつ地に足がついたものにするためには、同時に、日本における企業統治や分配の仕組み自体も変えてゆく必要となろう。こうしたハイブリッドな制度改革は、日本を覆う「ルサンチマン」の鮮やかな解法の1つとなろう。

2. 「ソーシャル・キャピタル」の復活

「信頼」「規範」「ネットワーク」といった協調行動を活発にする社会組織「ソーシャル・キャピタルル)」を再構築することが、人々の「人心の荒廃」、「感情の劣化」、「ルサンチマン」の諸問題を解消するために不可欠なプラットフォームとなる。ちなみに、「ソーシャル・キャピタル」は、人々が持つ信頼関係や人間関係からなる「社会的ネットワーク」のことである。人々の協調行動が活発化することにより社会の効率性を高めることができるという考え方のもとで、社会の信頼関係、規範、ネットワークといった社会組織の重要性を説く概念である。「人間関係資本」、「社交資本」、「市民社会資本」、「社会関係資本」と訳されることもある。提唱者とされている R.パットナムは「人々の協調行動を活発にすることによって社会の効率性を改善できる、信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴」としている。「信頼」、「情けは人の為ならず」「持ちつ持たれつ」「お互い様」といった互酬性の規範、そして人やグループの間の絆を意味している。上掲の「税制の抜本的改革」が、経済的側面からの処方箋であるのなら、この「ソーシャル・キャピタル」の復活は、日本における精神的側面から社会システム改革を目指す処方箋であり、「ルサンチマン」のもう1つの鮮やかな解法となろう。この両者は、2軸式の「収奪的システム」を打破するための処方箋となろう。

3. 非正規雇用制度改革

非正規雇用比率の引き下げと正規雇用比率の引き上げは急務である。非正規雇用者は、正規雇用労働者よりも賃金が低く雇用も不安定な状況に置かれ、社会保険や福利厚生の面でも正規雇用労働者よりも不利な立場にあり、生活の安定や将来への不安を抱え「ルサンチマン」に陥っている。加えて、日本における非正規雇用比率の高止まりは、家計所得の低下を通じて消費を減らし、経済成長を阻害しており、経済成長の阻害要因となっている。

4. 環境正義の確立

環境政策を「成長戦略」ではなく、「権利と義務」の枠組みで再構築することも重要な鍵となる。「環境正義(Environmental Justice)」は、単に環境保護や脱炭素社会構築を目指すだけではなく、社会をどう再構築するかという根源的問いを含んでおり、社会的・経済的な構造的不平等に根差した環境破壊や資源利用のあり方に対抗する多層的で根本的な変革を志向するものである。「収奪的システム」は、自然資源や人々の労働力、土地、時間、文化、さらには健康や将来世代の可能性までを「奪う」仕組みであり、環境被害の不平等な分配への抵抗、意思決定への公正な参加、代替的な開発ビジョンの提起、歴史的に抑圧されてきたコミュニティーの権利の回復等を含む社会的正義と環境保護の統合を目指す「環境正義」は、「収奪的システム」打開の有効な鍵となる。環境正義が収奪的システムを打破する役割は大きい。気候変動の影響を最も受ける人々に寄り添いながら不平等な構造を可視化し、地域主導の再生可能エネルギー等のオルタナティブの創出によって制度・価値観の転換を図り、 住民運動、環境NGO等との連帯のプラットフォームを提供する等、多義的で多様である。

5. 収奪構造の可視化と教育

日本社会では「収奪的システム」の収奪構造が「当たり前」や「自己責任」の名のもとで見えにくくされている。その打開のためには、収奪構造の可視化と教育が鍵となる。批判的思考を育てる教育、メディア・リテラシー、歴史認識の深化が重要である。

6. 政治的エンパワーメントとローカルな自治

「収奪的システム」の打開は、利権絡みの呪縛で動きが遅い永田町政治には限界がある。住民投票、議会請願、自治体監視等の草の根レベルでの市民参加が鍵となる。既成政党だけでなく、市民連合や新しい政治運動の形成や、地域通貨導入なども含めた地方自治体レベルでの制度変革も重要な鍵となる。

7. 経済的オルタナティブの創出

協同組合、労働者協同組合、地域通貨、コミュニティー経済の再構築や、信用組合、ソーシャルファイナンス等の金融の民主化、グローバル資本に依存しない生産と流通の回路の確立等も鍵となる。

8. 国際的連帯と脱成長的転換

グローバルサウスとの資源・労働力を搾取する構造の是正のための連帯や、成長至上主義から脱却、「足るを知る経済」や「ケア中心社会」へ転換等も鍵となる。


上掲の多様な処方箋の中で、河野氏は、特に真っ先に取り組むべき対策として、特に「税制の抜本的改革」を提言している。「民主社会の最重要制度である税制が機能していない。資本から得られる所得を優遇することで、労働から得られる所得を不利にしている現下の税制の抜本的改革が喫緊の課題だ」と喝破している。

同時に、彼は、さらに議論を進め、「統治や分配の仕組みも変えてゆく必要がある」「イノベーションの果実の分配を見直すべきだ」「所有権的個人主義も改める必要がある」とも言及している。その中でも、所有権的個人主義の見直しの提案は、本質的な問題提起であり、実に面白い。そもそも「所有的個人主義」は、自らの労働が生んだものは自分のものという西欧流の財産権の思想であるが、個人を尊重する西洋社会で誕生した所有権の呪縛から解放されて、むしろ必ずしも個人の所有権を最重要な要素と見做さない相互依存的なアジア的な価値観への回帰も大事なヒントとなるかもしれない。河野氏のこの着眼点は鋭く、正鵠を射ている。

また、河野氏が提案した「税制改革」と同時に急務なのが、「ソーシャル・キャピタル」の復活である。人間の本性には「うまく生きる」よりもむしろ「よく生きたい」という思いがある。「当時は大変だったけれど、充実していた」的な心が熱くなる体験は、大同小異、誰しもがもっているであろう。そこにヒントがある。「よく生きたい」と思っている健全な心を持っている人々はまだ多数健在である。そして、信頼関係や人間関係からなる「社会的ネットワーク」の素地は生きている。そのためにも、「ソーシャル・キャピタル」の萌芽は、着実に始まっている。

なお、一介の環境学者の立場からは、「環境正義」も、「収奪的システム」打開の有効な鍵となると考えている。「環境正義」は、「自然を守る」「脱炭素社会構築を目指す」だけの運動ではなく、社会をどう再構築するかという根源的問いを含んでおり、持続可能性と公正を両立させる「非収奪的な社会」のビジョンを提示する意義は大きい。その射程は広範かつ多岐にわたり、市民電力等の地域主導の再生可能エネルギー、気候市民会議等の「環境正義」を念頭にした新しい民主主義の模索、コモンズ的思考に依拠した土地利用や森林資源の共同管理、経済成長至上主義から「脱成長」や「ウェルビーイング」への転換等、「収奪的システム」打開の有効な鍵となる潜在力を持っている。従来型の経済成長優先で人々や地域を「使い捨て」にしてきた収奪的構造問題に対して、持続可能で民主的そして包摂的な社会へのビジョンと実践を提供する力を持っている。今後、「環境正義」が、いかにして「収奪的システム」打開の有効な鍵となってゆくか注目してまいりたい。

ちなみに、昨年来ささやかながらアドバイザーとして参加させていただいた地元鎌倉の「かまくら脱炭素市民会議」も「ソーシャル・キャピタル」と「環境正義」の萌芽を感じることができた好事例であった。そこでもあらためて実感したが、相手の顔が見える空間で協働をめざした対話「熟議」をすることの意味は大きい。価値観や思想信条、趣味趣向やジェンダーも異にする市民が「脱炭素」というテーマの下で集合し、腹を割って話せるようなクオリティの高い関係性がそこに醸造されていた。匿名化を排除し、偏見を取り払った状況下で独りよがりな意見はいさめられ、集団内の立場のある人が理解を示すことで、意見が通らなかった人の不満も解消できる効用があることを、あらためて気候市民会議の現場で再認識した。希望は確実にあるという確信を体得できた。

8.日本発の「アジア的価値観の回帰宣言」の未来志向的な含意

以上、日本における「人心の荒廃」、「感情の劣化」、「ルサンチマン」、「政治の貧困」の元凶たる「経済格差」の培養器とも揶揄される「収奪的システム」の打破について、様々な処方箋の可能性について、縷々議論してきた。

さて、ここで、せっかくの好い機会なので、最後に、さらに踏み込んで、射程を拡張して、本質的な未来志向的な課題として、日本発の「アジア的価値観の回帰宣言」の未来志向的な含意について、以下、論点整理をして、筆を置きたい。

結論から言うと、やや踏み込んで言い方ではあるが、重要な鍵は、「脱西欧」にある。「西欧の流儀」からの卒業である。「アジア的価値観の回帰宣言」である。それが、上掲の様々な処方箋の「最適解」を担保する鍵となると考える。

ジョージタウン大学のチャールズ・カプチャン(Charles A. Kupchan)[1]の『ポスト西洋社会はどこに向かうのか(No One’s World)』(2012)は、「もはや西洋の政治・経済モデルは唯一正しいものではない」と洞察している。まさに正鵠を射ている。

カプチャンは、冷戦後のリベラルな国際秩序が恒久的なものだという西欧の独善的な自己認識に対して警鐘を鳴らしている。彼の警鐘と洞察は、「西洋の衰退」の予見に留まらず、「国際協調の新しい前提条件」を示唆している。そこに重要な未来志向的な含意がある。

気候変動、感染症、貧困、不平等などのグローバルな課題に取り組むためには、異なる制度、文化、政治的価値観を持つ国家同士が互いを否定せず尊重し合いながら、覇権争いではなく、むしろお互いに相いれない相違性を相互認識しながら、支配より「調和」を優先することでグローバルな課題に対する取り組みをより実効性に高いものにするための「協働」が必須要件となっている。このカプチャンの洞察には、「西欧の流儀」からの卒業と「アジア的価値観の回帰宣言」の必然性とその意義の重要性を考えるための深い含意があり、「ルサンチマン」の解法に繋がる意味でも重要である。

欧米流の自由民主主義や市場経済モデルは普遍的なものではない。絶対的なものでもない。方や、中国、インド、ロシア、中東諸国、そしてグローバルサウス諸国は、異なる価値観や統治モデルに基づいた発展を遂げてきている。こうした世界の厳然たる事実に対して、西洋社会が「上から目線」であることも不遜独善であることはもはや許されない。このことは、単に経済的な台頭だけではなく、価値観や制度の多様性の容認、すなわち「多文明的秩序」(multi-civilizational order)への移行が、もはや不可逆的な歴史的必然であることを意味している。

かつて、西欧の時代、18世紀以降の啓蒙主義・産業革命・帝国主義・冷戦期の自由主義的秩序に至るまで、主に英国・フランス・米国等の欧米諸国が軍事・経済・知的覇権を握ってきた世界秩序があった。しかし、書架の世界史の教科書をパラパラと斜め読みして、人類史を俯瞰でいて歴史を振り返れば、自明であるが、西洋が世界を支配したのは、たかだか、ここ300年ほどの短期間にすぎないことが分かる。欧米が国際秩序を支配してきたのは、実は人類史から見ればごく短い「特異な時代」にすぎない。西洋の支配は常態ではなく、歴史の中のごく短期間の束の間の「エピソード」にすぎなかったのである[11]

そして、いまや、中国やインド等の新興国等の勃興の中、近代以降の300年間にわたり世界に君臨してきた「西洋の例外的支配の時代」が終焉に向かっている。十字軍や宣教師覇権に象徴される普遍的理念先行型の西洋流独善と優越感に依拠してきた世界支配の流儀自体の限界は明らかである[12]

中国やインド等の新興諸国が勃興する一方で、西洋先進国が相対的に衰退しつつあり、民主主義などの西洋的価値は魅力を失い、世界は政治的・思想的にも多様化しつつある。その意味で、「トランプ劇場」は、「西洋の時代」の末期症状の「悪あがき」にすぎないとも言える。そして、いままさに、世界史上はじめて、確実に「誰のものでもない世界(No One’s World)[13]」が到来している。

むろん、日本の今日に至る経済的繁栄の多くが、「西欧の流儀」からの応用に依拠してきたことは事実である。時代の要請で、特に明治維新以降、積極的に「学習」し、「内部化」し、実利的に「応用」してきたその恩恵には感謝すべきであろう。しかし、いまや、もはや、「西欧の流儀」の賞味期限は到来している。その致命的な弊害も露呈しつつある。「トランプ現象」は「西欧の流儀」の制度疲労の末期症状であるとも言える。過去に学習し習得し内部化してきた「西欧の流儀」の良い点までのすべて一気に棄却すべしと言った乱暴な議論をつもりは毛頭ないが、いま大事なことは、日本は、こうした時代の転換期の「風」を機敏に察知して、自国が古来長年踏襲して守ってきたアジア的・日本的感性を再度見直し再評価し、「アジア的価値観」への回帰を念頭に全く新しい次元の「日本モデル」を実装すべき時期に来ているということである。

「アジア的価値観」への回帰とは、調和、全体性、関係性、内省等の価値観を現代社会の基盤に再構築しようとする試みである。こうした価値観は、儒教・仏教・道教、あるいは東洋的な倫理観に根ざしている。未来志向的な「アジア的価値観」への回帰の意義としては、以下の2点を挙げることができる。

「アジア的価値観」への回帰の2つの意義
①「脱収奪的な社会モデル」としての意義
②「持続可能な社会モデル」としての意義




1)「脱収奪的な社会モデル」としての意義

「収奪的システム」に象徴される資本主義的・個人主義的・支配的自然観に依拠してきた西洋的価値観の弊害と矛盾が露呈しつつある中で、「ポスト民主主義」・「ポスト資本主義」の視座を念頭に、「脱収奪的な社会モデル」としての「アジア的価値観」への回帰を試みる歴鋭的意義は大きい。

従来の西洋的近代に基づく「収奪的システム」の価値観は、地球環境や自然を資源としての対象化し、自然は人間が支配し利用すべきものと考え、個人主義と所有権の絶対視を前提に、経済成長=善として、植民地主義・帝国主義・資本主義の歴史的展開を経て、今日に至っている。そこにおいては、気候危機を含めた環境破壊や、アジアやアフリカ諸国を含むグローバルサウスへの資源・労働力の収奪を正当化してきた事情もある。方や、「アジア的価値観」は、アジア域内でも国別相違はあるものの、概して自然との共生的な関係性を重視している意味で、西洋的価値観とは根本的に違う。日本の「八百万の神」、中国の道教、仏教的自然観など、枚挙に暇はない。

また、国家観や共同体に対する認識も西洋的価値観とは異にしている。日本における「入会地」等に象徴されるように、村落共同体、相互扶助、コモンズ的慣行等、共同体を重視しており、しかも、循環型経済や生活様式を伝統的に踏襲してきた。「個人の自由よりも関係性の中での調和」が重視される利他性・相互扶助の倫理は、「アジア的価値観」の根幹をなしている。村落や家族、地域共同体での相互扶助、「分かち合い」や「徳」の重視、社会的責任としての富の活用等は、経済活動が「自己利益の最大化」ではなく、「他者との共生」「全体の福祉」につながるべきものとして捉えられる土壌がある。また、時間的持続性を重視した「サステナブルな思考」も重要な特性である。

なかでも、特筆すべき「アジア的価値観」の特徴は、「所有」に関する価値観である。共有林、灌漑の協同管理等の事例で象徴的なように、非所有・非中央集権的な管理に依拠している。これらは、いずれも「アジア的価値観」が、西洋流の「経済的合理性」や「即時的な利益」よりも、調和、持続、共存、倫理的責任を基盤とする社会の構想に結びついていることを示している。そして、「脱近代」「脱西欧」のオルタナティブと相互補完的関係性構築としての意義は大きい。「アジア的価値観」への回帰は、近代西欧的な「進歩」や「合理性」だけでは捉えきれない人間の「精神性」や「共感的倫理」を重視する枠組みの提示を意味している。欲望を制限する倫理・質素な豊かさの思想は、脱成長社会を構築する。これによって「成長から成熟へ」「競争から共生へ」という社会ビジョンの転換を起こすことができる。西欧的な個人主義、自由市場至上主義が社会の分断を助長し、不可逆的な深刻な限界点に到達し、西欧流価値観が空洞化しつつある一方で、アジア的価値観としての共同体的価値の再評価が進んでいる。また、「アジア的価値観」に基づく「共感民主主義」や「関係資本主義」など、制度の再構想に資する視点が得られる。

なお、この「アジア的価値観」への回帰は「西欧vs非西欧」という対立を意味していない。むしろ、相互補完的関係性の構築を視野に入れている。この意味で日本は「アジアと西欧の橋渡し」として、共通善を目指す倫理的枠組みの重要な提唱者としての役割が期待されている。こうした「アジア的価値観」の特異性に鑑み「脱収奪的モデル」としての意義は重要な含意があると考える。



2)「持続可能な社会モデル」としての意義

気候変動問題等地球環境問題において従来「外部化」してきた諸問題が顕在化し事態は深刻化している中で、グローバル資本主義の中での経済成長至上主義が限界に達している。こうした時代の要請で、まったく新しい「サステナブルなモデル」の模索が必要になっている。その時代の要請にこたえうる意味でも、「アジア的価値観」に依拠した「持続可能なアジアモデル」への期待は大きい。

利益や合理性中心の社会から、環境・共同体・心の豊かさを重視する方向への歴史的転換点において、サステナビリティや倫理的経済との親和性が高い「アジア的価値観」の果たす役割は重要な含意がある。

とりわけ、決定的な点は、「アジア的価値観」の中軸を占める「自然との共生的世界観」である。仏教、道教、儒教、神道などアジアの多くの思想伝統では、自然は人間とは切り離された対象ではなく、共に生きるべき存在とされている。例えば、日本には「八百万の神」がいるが、これは自然物への神聖視に拠る。また中国の道教の「無為自然」は、自然の流れに逆らわない生き方に拠る。仏教の「縁起」はあらゆる存在が相互依存している相互依存性に拠っている。こうした自然との調和を前提とする暮らしと社会システムの発想は、環境破壊や資源の過剰利用を戒め、持続可能性と親和性が高い。この「アジア的価値観」の特性は、「持続可能な社会モデル」の根幹をなしている。

また、「質素・足るを知る」という価値は、無限の欲望を制限する倫理であり、「少ないことは豊かである(less is more)」という禅的生活観に象徴される仏教や禅の伝統であり、さらには「物質的豊かさよりも精神的充足」や「質素な暮らし」が理想とする農村的価値観の中にも垣間見られる。また、インドのスワデーシ、非暴力的経済等のガンディー主義的価値観にも通底している。

こうした「自然との共生的世界観」や「質素・足るを知る」という価値は、西欧流の消費社会・大量生産型経済から脱却し、脱成長・循環型経済への価値的基盤となるであろう。

かつて、日本は明治維新以降、急速に西欧化・近代化を進めてきた。その結果、「脱亜入欧」を掲げ、文化・制度・思想において欧米模倣を基盤にした発展を遂げてきた。しかし、今や、「脱西欧」のシグナルが点滅し始めている。それは、「西洋の時代」の終焉を意味し、同時に、「西欧の流儀」からの卒業と、「アジア的価値観の回帰宣言」による新しいパラダイムシフトの好機であることを告げている。なお、誤解してはならないことがある。ここで「西欧の時代の終焉」が意味していることは、単なる覇権の移動ではない。むしろ、その本義は、価値観・思考枠組みのパラダイム転換なのである。日本がいままで西欧的価値観に縛られたアイデンティティから脱却し、アジア的価値観への回帰を図ることは歴史的必然である。そして、未来志向的にも極めて意義深い動きである。それは単なる復古主義ではなく、「過去の叡智を未来の革新に活かす」行為である。次世代の文明構築における「希望の光」ともなり得る。「真に重要な課題は、この世界の大転換をうまく進めて、次の世界へ平和的かつ計画的にたどりつくことである。」と喝破したカプチャンの言葉は、まさに正鵠を射ている。トランプによってすでに開けられてしまった「パンドラの箱」が世界中に不安を拡散させているが、しかし、肝心なことは、その目先の混乱と不確実性に拘泥して一喜一憂することではない。その「パンドラの箱」の底には、ほのかに光る「希望」がある。このことを認識することがなによりも重要なのである。そして、その「希望」は、「アジア的価値観」から読み解くことで、より実効性の高い実装が可能だと考える。まさに、日本における「ルサンチマン」の鮮やかな解法は、その「希望」の中にあるのである。

[10] チャールズ・カプチャン(Charles A. Kupchan)、1958年 -、アメリカ合衆国の国際政治学者。ジョージタウン大学準教授。ハーバード大学卒業後、オックスフォード大学大学院で学び、博士号取得。国務省およびアメリカ国家安全保障会議でヨーロッパ問題を担当。またプリンストン大学でも教えていた。単著;The Vulnerability of Empire, (Cornell University Press, 1994).The End of the American Era: U. S. Foreign Policy and the Geopolitics of the Twenty-first Century, (Knopf, 2002).坪内淳訳『アメリカ時代の終わり(上・下)』(2003年)、How Enemies Become Friends: The Sources of Stable Peace, Princeton UP, 2010.No one’s world: the West, the rising rest, and the coming global turn, Oxford University Press, 2012.

[11] いまから265年前の1760年代に始まったとされる産業革命(industrial revolution) 以降の300年間、西洋諸国は軍事力・経済力・知的権威において世界をリードしてきた。しかし、産業革命以前の時代、その300年間の何倍もの長きにわたって、世界の中心は中国、インド、イスラム圏にあり、むしろ西洋は「世界の辺境」だった時代の方が長いのである。

[12] 「西欧的近代の終わり」「西欧中心の普遍性の終焉」を示唆する近年の変化としては、①米国の相対的衰退と多極化の進展(中国やインドの台頭、BRICSの結束強化、グローバルサウスの発言力増大)、②欧米の理念の揺らぎ(ポピュリズム、格差、移民問題等の民主主義や自由主義の内部崩壊、③グローバリズム批判の台頭(ウクライナ戦争・中東情勢・アジア安全保障の変化により、西欧中心の国際秩序がもはや普遍的とは見なされなくなった事情)等の諸現象を挙げることができる。

[13] 「誰のものでもない世界(No One’s World)」とは、「アメリカの世紀」でも「中国の世紀」でもない、覇権国のいない「誰のものでもない世界」を意味する。中国やインド等の新興諸国が勃興する一方で、西洋先進国が相対的に衰退しつつあり、民主主義などの西洋的価値は魅力を失い、世界は政治的・思想的にも多様化しつつある。その意味で、「トランプ劇場」は、「西洋の時代」の末期症状の「悪あがき」にすぎないとも言える。そして、いままさに、世界史上はじめて、確実に「誰のものでもない世界」が到来している。現下の「トランプ劇場」の終演をもって、西洋の時代が幕を閉じる。そして、今や、時代は、何よりもすなわち「無主の世界」への移行過程にある。(出所)Charles A. Kupchan(2012)” No one’s world: the West, the rising rest, and the coming global turn” (Oxford University Press, 2012)

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