
「西洋の敗北は、今や確実なものとなっている。しかし、一つの疑問が残る。日本は、敗北する西洋の一部なのだろうか。」 (Emmanuel Todd[1])
[1] エマニュエル・トッド (Emmanuel Todd), 1951年5月16日 -、フランスの人口統計学者、歴史学者、人類学者。研究分野は歴史人口学、家族人類学。人口統計を用いる定量的研究及び家族類型に基づく斬新な分析によって広く知られている。フランスの国立人口学研究所に所属していた。2002年の『帝国以後』は世界的なベストセラーとなった。経済現象ではなく人口動態を軸として人類史を捉え、ソ連の崩壊、英国のEU離脱や米国におけるトランプ政権の誕生などを予言した。
1. 異端の哲学者リチャード・ローティ(Richard Rorty) の予言と洞察
いまや、世界は、グローバル・コンセンサス(Global Consensus)ではなく、グローバル・ディセンサス(Global Dissensus;意見の不一致)が常態化した世界に突き進んでいる。
現下の混迷した世界情勢を観て、ふと、米国の哲学者で思想史家のリチャード・ローティ(Richard Rorty)[2]の予言を思い出した。彼は、20年近くも前に、「トランプ現象」を西洋哲学の限界と終焉の帰結として予言していたとして、一躍注目された哲学者である。
現代アメリカを代表する哲学者でもあるローティは、真理の探究を目指し「理性」を重視する従来の近代西洋哲学の限界と独善性を喝破し、分断や差別をもたらしたと否定した。そして、著書『偶然性・アイロニー・連帯』などを通して、伝統的な西洋哲学固有の「私たちは同じ本質を共有する人間だ」という考えは幻想にすぎないと一刀両断し、西洋哲学の限界と終焉について論じた。また、著書『アメリカ未完のプロジェクト』で、「米国には理想としての民主主義があるが、まだそれは完全には達成されていない」とし「米国は未完のプロジェクトである。」と評した。そして『リベラル・ユートピアとその敵(Achieving Our Country, 1998)』の中では、以下のような記述で、「かつての偉大なアメリカの復活を約束する人物」としていまのトランプの出現を予言している。
「労働者階級が、自分たちの生活が破壊されていく中で、リベラル派が彼らの痛みに無関心だと感じたとき、彼らは強権的な指導者に惹かれるようになるだろう。その人物は、我々の体制に必要な改革ではなく、かつての“偉大なアメリカ”の復活を約束するかもしれない。」
そして、こうも語っている。
「労働組合員および組合が組織されていない非熟練労働者は、自分たちの政府が低賃金化を防ごうとも雇用の国外流出を止めようともしていないことに遅かれ早かれ気づくだろう。時同じくして、彼らは郊外に住むホワイトカラー層──この人たちもみずからの層が削減されることを心底恐れている──が、他の層に社会保障を提供するために課税されるなど御免だと思っていることにも気づくだろう。」
「その時点において何かが決壊する。郊外に住めない有権者たちは、一連の制度が破綻したと判断し、投票すべき『強い男』を探しはじめることを決断するだろう。その男は、自分が当選した暁には、せこい官僚、ずるい弁護士、高給取りの証券マン、そしてポストモダンかぶれの大学教授といった連中にもはや二度と思い通りにさせない、と労働者たちに約束するのだ。」
まだトランプの「ト」の字も世に出ていない27年も前に、すでにこれほどみごと的確にいまの「トランプ現象」を予想していた哲学者がいたことには驚いた。ローティの慧眼に、敬意を表したい。
ローティがこうした的確な予言をできたのには理由があった。彼が、従来の伝統的西洋哲学が依拠してきた「人間は、同じ本質を共有しているという幻想」を真っ向から否定していたからであった。彼は、哲学だけが真理につながる唯一のものだという哲学者たちの独善な思い込みに疑問を呈し、学問の世界で独善的に特権的な地位を得ている既存の哲学者達を批判した。ローティは「トランプ現象」のトリガーになった「西洋哲学の限界」と「西洋社会の終焉」を洞察していたのであった。
彼は著書『哲学と自然の鏡』の最後に、次のように書いている。
「西洋哲学者の道徳的な関心は、西洋という私たちの会話を継続させることに向けられるべきであって、この会話のなかで近代哲学の伝統的な諸問題が占めている地位にしがみつくことに向けられるべきではないのだ。」(『哲学と自然の鏡』)
彼の主著『偶然性・アイロニー・連帯』のタイトル、「偶然性」、「アイロニー」、「連帯」という言葉には、それぞれ西洋哲学の限界と終焉についてのローティの卓越した洞察が詰まっている。
まず「偶然性」という言葉。従来の哲学では「自己」について考えるとき、確かな「自己」を前提にしがちであるが、しかしローティは「自己」を必然的な確固としたものとは考えなかった。ローティは、「自己」はまた偶然性のもとで形成されるいい加減なものだと考えた。彼、精神分析のフロイト(Sigmund Freud、1856 – 1939)の考え方に注目し、フロイトの精神分析が明らかにしたのは、「偶然のかたまりとしての自己」だと考えた。個々人は、偶然の産物であり、普遍的なものではなく、そもそも、多様異質なものだと考えた。そうすると、自分と違った考え方を持っている人、自分と違った道徳観を持っている人とも話し合う余地が生まれてくる。目的がバラバラな人たちが集まっても、同調することもなく、お互いを尊重しながら協力することができると考えた。それをローティは「リベラルなユートピア」と呼んだ。そんなリベラルなユートピアの市民に必要なのが、「人間は、元来多様であり、同じ本質を共有しているわけではない」という気づきであり、「自己の偶然性」の認識である。それを認めることから、人類の共生が可能となると考えた。
一緒にやっていく人同士のあいだでは、自分が相手に影響されたり、相手が自分に影響されたりする可能性がある。つまり、それぞれが変わりうる存在であり、必然に固執するのではなく偶然に開かれていることを確認する。そうやってお互いを改訂されることに対して開きながら、どうにかしてときには手を携える。そこに、連帯の可能性が出てくる。つまり、従来西洋社会が依拠してきた「必然的な本質を共有しているわれわれだから、わかるはずだ」ではなく、むしろ本質など持たない、互いに偶然的な存在であるからこそ、何かしら一緒にやっていくことができるという可能性が出てくる。ここが偶然性から連帯の契機が出てくるという。これは、理念先行の現代社会においては、ともすると欠落している、最も必要とされている認識かもしれない。
次に「アイロニー」という言葉である。「アイロニー」という言葉は、「皮肉」「冷笑的」といった意味であるが、ローティはそういう意味では使っていない。ローティによれば、「アイロニー」とは自分の言葉に対してつねに懐疑的であるような態度のことを言っている。そのことによって、話者はつねにより良い言い方を探すようになる。また、自分の言葉に懐疑的である人は、自分と異なる語彙を持つ他者に対して、そのことを理解して、近づくことができる。このように、言葉を疑い、新たな言い方を探す人は、「自己創造」ができる人である。しかし、それは時に、その人が信じる社会正義とそぐわないことがある。そのことを認めた上で、懐疑的な言葉のあり方を探す人のことを「リベラル・アイロニスト」と呼んだ。そして、人は立場によって言葉を使い分けるものだ、と言っている。公的な場面で使う言葉、私的な場面で使う言葉は統一される必要もなく、矛盾していて良いのだという。彼は、それを「バザールとクラブ」という比喩で言い表した。公共の市場であるバザールでの発言と、夜の飲み屋で発する愚痴とは違っていていい、むしろ公私の統一を要求したり、そこに本質を求めたりすると無理が生じる、と言っている。このローティの認識は、インターネットで公的な空間が広がる今日では、ますます重要性を増している。
最後に「連帯」という言葉である。この本の中で、伝統的な西洋哲学固有の「私たちは同じ本質を共有する人間だという幻想」が、他者の痛みを想像することを欠いた「残酷さ」を生み出していると喝破した。そして、西洋哲学の限界は、「同じ本質を共有することができない人間を人として認めない残酷な幻想」にあると切り込んだ。そして、この「残酷さ」を乗り越えるために必要なのは、「同じ本質を共有する人間だという幻想」を抜きにした人間同士の異質と多様性を前提とした「連帯」であると考えた。この際に、犠牲者の痛みの言葉や美辞麗句、あるいは理論家による論理的な言葉は意味を持たない。苦痛そのものは非言語的なものであり、言葉で痛みを語ろうとしても、その痛みの大きさは到底語りきれないとした。かような哲学を否定するというローティーの一見ネガティブな主張は、実は、既成の西洋哲学によって抑圧された正常さを取り戻す試みでもあった[3]。
ローティは、世界の悲惨な状況にあるその病根の一つが既成の哲学の「真理普遍主義」にあると断罪し、既成の価値観を相対化する必要があるとした。もしも、この世界で生きにくさを感じている人がいたら、それはその人自身の責任ではなく、この世界の方が異常なのかもしれないと洞察した。こうしたローティの特異な視座が、20年後の「トランプ現象」の予想に繋がった。
[2] リチャード・マッケイ・ローティ(Richard McKay Rorty)、1931年10月4日 – 2007年6月8日、米国の哲学者で思想史家。シカゴ大学とイェール大学で教育を受け、ローティの学術経歴にはプリンストン大学のスチュアート哲学教授、バージニア大学のキーナン人文学教授、スタンフォード大学の比較文学教授。彼の最も影響力のある著書には『哲学と自然の鏡』(1979年)、『プラグマティズムの帰結』(1982年)、『偶然性・アイロニー・連帯(英語版)』(1989年)がある。『アメリカ未完のプロジェクト――20世紀アメリカにおける左翼思想』(1998年)で、ローティは、左派の二つの側面として見なすものを区別する。文化的左派と進歩的左派である。彼は、フーコーのようなポスト構造主義者やリオタールのようなポストモダニストに例示される文化的左派を、社会の批判は提供するが、代替案を提供しない(あるいは漠然としすぎていて放棄に等しい代替案しか提供しない)として批判する。これらの知識人は社会の病について洞察に満ちた主張をしているが、ローティは彼らが代替案を提供せず、時には進歩の可能性さえ否定していると示唆する。一方、ローティにとってプラグマティストのジョン・デューイ、ホイットマン、ジェイムズ・ボールドウィンに例示される進歩的左派は、より良い未来への希望を優先する。ローティは、希望なしには変化は精神的に考えられず、文化的左派は冷笑主義を生み出し始めていると論じる。ローティは進歩的左派をプラグマティズムの哲学的精神において行動していると見なす。
[3] ローティのユニークなところは、この「連帯」を実現するためには、フィクションやエスノグラフィ、ジャーナリズムなどの力に可能性を見出したところにある。彼は、物語の想像力、文化や行動様式の詳細な調査、マスメディアによる報道や解説、論評などによって、遠い関係にある人間同士をイマジネーションによって「連帯」させることが鍵であると考えた。
2. 西洋の時代の終焉と「無主の世界(No One’s World)」への移行
近代西洋哲学と西洋社会の限界と終焉を洞察したローティが予言した通り、その20年後にトランプが世に登場した。そして、いまや狂騒曲のような「トランプ劇場」が、絶賛上演中である。しかし、やがて、この「トランプ劇場」の終演をもって、西洋の時代が幕を閉じつつある。
そして、今や、時代は、何よりも「アメリカの世紀」でも「中国の世紀」でもない、「誰のものでもない世界」すなわち「無主の世界(No One’s World)」への移行過程にある。
しかし、「西洋の時代が終った」と、ことさら大げさに大騒ぎするほどのことではない。想定の範囲内である。むしろ、いま、我々が目撃している風景は、歴史の必然であると言えよう。終わるべくして西洋の時代が終るまでのことである。
いま、鎌倉図書館から借りてきたジョージタウン大学のチャールズ・カプチャン(Charles A. Kupchan)[4]の『ポスト西洋社会はどこに向かうのか(No One’s World)』(2012)を読んでいる。「もはや西洋の政治・経済モデルは唯一正しいものではない」との洞察は、まさに正鵠を射ている。
書架の世界史の教科書をパラパラと斜め読みして、人類史を俯瞰でいて歴史を振り返れば、西洋が世界を支配したのは、たかだか、ここ300年ほどの短期間にすぎないことが分かる。欧米が国際秩序を支配してきたのは、実は人類史から見ればごく短い「特異な時代」にすぎない。西洋の支配は常態ではなく、歴史の中のごく短期間の束の間の「エピソード」にすぎなかったのである。
1760年代に始まったとされる産業革命(industrial revolution)[5]以降の300年間、西洋諸国は軍事力・経済力・知的権威において世界をリードしてきた。しかし、産業革命以前の時代、その300年間の何倍もの長きにわたって、世界の中心は中国、インド、イスラム圏にあり、むしろ西洋は「世界の辺境」だった時代の方が長い[6]。
産業革命以前は、非西洋の多様な文明が並立し、相互に影響し合う多様性に富んだ豊かな世界が長きにわたって繁栄していた。8~13世紀の「イスラム黄金期」には、数学(アラビア数字、代数学)、天文学、医学などで世界をリードしていた。中国の10~13世紀の「宋代」には、世界でもっとも高度な経済システムと都市文明が発展していた。インドの「ムガル帝国」(1526–1857)は世界最大級の経済大国として、繊維産業を中心にグローバル輸出を牽引していた。西洋が「発展の先頭」に立つのは、あくまで近代以降のほんの300年間にすぎなかった。その前には、中国、インド、イスラム圏という世界の主軸が長きにわたって君臨していたのである。18世紀初頭までは、インドと中国で世界GDPの過半数を占めていたことについては、結構知らないものも多いが、しかし、これは、まぎれもない史実である。以下の【図1】は、紀元後の世界におけるGDP(購買力平価ベース[7])シェア推移を示している。【図2】は、紀元後の世界人口の推移を示している。

(出所)小野亮治(2011)「存在感増すアジア経済」[8]

(出所)小野亮治(2011)「存在感増すアジア経済」
この図から、1800 年頃まではアジアが概ね世界全体の経済の 60~70%を占めていたことが、一目瞭然である。その間、欧州が 20~30%程度で、当時の米国・オセアニアの経済規模はまだごくわずかに過ぎなかった。この後、欧州で14~16 世紀にかけてのルネッサンスなど思想的・文化的な発展が起こり、その後の植民地政策や貿易拡大の後、18 世紀に産業革命が勃興し、経済発展が加速した。そして、さらに新大陸への移民が進むと、欧米地域の経済が急速に拡大した。第二次世界大戦後は、まず日本が高度成長し、韓国などNIEs諸国の経済が拡大し、さらに 21 世紀に入ってからは新興国の中国やインド等の経済規模の拡大が顕著になり、20 世紀中頃には、両地域で世界のGDPの 70%以上を占めるようになった[9]。
近年、世界のGDPは、アジアと米国・オセアニアと欧州がほぼ三等分する形となっている。その内、全世界人口の3割程度を占めるにすぎない欧米地域が全世界の所得の約7割を獲得している。
そして、この全世界の所得の重心が、欧米から日本・中国・インド等のアジアへと大きくシフトしつつある。すでに14年前の2011年に日本を抜いてGDP(名目)で世界第2位となった中国は、既に2014年頃から、購買力平価(PPP)ベースのGDPで米国を抜いて世界1位となっている。GDP(名目)でも、現下のトランプ関税の影響や、人口減少、成長鈍化、地政学リスク等もあり確定的ではないものの、IMFや世界銀行の予測では、2030年代には、中国が米国を追い抜く可能性があると言われている。また、インドもドイツを追い抜き、日本に迫る見込みである。その結果、中国やインド等の新興国のGDPが世界全体に占めるシェアは、市場レートベースでみると、2009年時点で18.9%であったものが2030年には36.6%まで拡大し、米国・欧州主要国・日本等の先進国と拮抗すると見られている。
そして、いまや、中国やインド等の新興国等の勃興の中、近代以降の300年間にわたり世界に君臨してきた「西洋の例外的支配の時代」は、終焉に向かっている。十字軍や宣教師覇権に象徴される普遍的理念先行型の西洋流独善と優越感に依拠してきた世界支配の流儀自体に、限界が来ている。
中国やインド等の新興諸国が勃興する一方で、西洋先進国が相対的に衰退しつつあり、民主主義などの西洋的価値は魅力を失い、世界は政治的・思想的にも多様化しつつある。その意味で、「トランプ劇場」は、「西洋の時代」の末期症状の「悪あがき」にすぎないとも言える。そして、いままさに、世界史上はじめて、確実に「誰のものでもない世界」が到来している。
これからは、「パクス・ブリタニカ」を標榜したかつての大英帝国や「パクス・アメリカーナ」を標榜してきた現覇権国の米国のような、強大な軍事力や基軸通貨、言語といった強力な求心力を担保にして単一の国や価値観が国際秩序を牽引することができない時代になってゆく。安定した国際秩序の構築がより困難になってゆく。むしろ、多国間主義よりも、地域的・実利的な協力に重きが置かれる時代に不可逆的に移行してゆく。こうした歴史的必然に鑑みカプチャン的視点から読み解くトランプの地政学は面白いテーマである。トランプは「アメリカ・ファースト」を掲げて、国際協調や多国間主義よりも双務的な取引と国内利益を優先しているが、このトランプの再登場によって、「国際秩序の守護者」であることを放棄しつつある米国の断末魔の兆候が顕在化していきてる。そして、米国は、「覇権国」としての矜持を放棄し、「覇権国」の座から降り、一つの大国として自国優先の利害調整に徹する立場を強めている。これはまさにカプチャンの言う「国際秩序の分裂」「多極化」と軌を一にする動きである。その意味で、いまのトランプの外交姿勢は、「無主の世界」における「米国の適応戦略」とも言えよう。カプチャンは「無主の世界」では、価値観の共有による秩序ではなく、利害調整ベースの秩序が中心になると見ている。トランプの「取引型外交(deal-making diplomacy)」はこの流れに親和的である。その結果、NATOや国連といった価値ベースの枠組みはより軽視される。
こうした「トランプ的世界」については、世界中の研究者や識者が、同様な危機感を抱いており、様々な問題提起している。
政治学者イアン・ブレマー(Ian Bremmer)[10]は、カプチャンと同様に、欧米によって長らく主導されてきた国際秩序の変容に焦点を当てて「Gゼロ(G-Zero)」の議論を提示している。
彼は、かつてのG7やG20のような主要国による集団的リーダーシップが機能不全に陥っている実態を分析し、「G7」でも「G20」でもなく「リーダーなき世界」が到来するとし、かつてのG7(先進国主導)、現在のG20(先進・新興国を含む)に代わり、世界をリードする安定的な大国連合が存在しない指導国不在状態を「Gゼロ」と呼んだ。
今回の「トランプ劇場」の第2幕の開幕は、タイミングが非常に悪い。世界経済の成長は低迷し、インフレはしぶとく、債務水準は歴史的な高水準にある。ほとんどの新興市場は、コロナ禍の消費ブームから完全に回復していない。ここ数十年で最も低迷している窮地にある中国経済は、深刻化する不動産危機、増大する債務、そして景況感の悪化に直面しており、中国の成長モデルの限界を露呈している。 習近平は家計消費を促進するための痛みを伴う改革ではなく、中国が最も得意とする輸出にさらに力を入れている。 中国の工場では、国内市場が吸収できる量をはるかに超える数の自動車、ソーラーパネル、電子機器が生産されている。その結果、中国は生産能力過剰問題を海外に押し付けようとしており、1 兆ドルを超えた貿易黒字はさらに増加している。この悪いタイミングでトランプが登場し、熾烈な高額関税で中国への攻勢を強めている。「トランプ2.0」の政策はドル高を招いて米国の金利を高止まりさせ対処の準備が整っていない世界中の国々への圧力を高める。トランプ関税引き上げや報復措置の応酬は、消費者物価を上昇させ、成長を鈍化させ、数十年かけて構築されたサプライチェーンを混乱させる。企業は余剰人員を確保し、在庫を多く抱えることを余儀なくされ、コストが増加する。米国と中国が同時に自国第一主義に転換すれば、経済と金融の分断化が加速し、政策の不確実性が増大し、世界的な投資、貿易、成長が損なわれることになる。この「悪魔のドミノ倒し」とでも形容できそうな一連の悪夢のような負の連鎖によって、「西洋の時代」は完全に息の根がとめられ、世界は一気に混沌の「無主のGゼロ」世界に放り出される。
この「無主のGゼロ」世界では、相対的衰退を加速する米国は内向き志向を強め、世界を主導する意志と能力の両方を失い、方や、中国、EUなどの他の大国も世界秩序を引き受ける準備が整っていない。その結果、気候変動、パンデミック、金融危機などグローバルな課題への対応が、統一的かつ効果的に進められない困った状況に陥る。そしてすでに「パンドラの箱」は空いてしまった。
[4] チャールズ・カプチャン(Charles A. Kupchan)、1958年 -、アメリカ合衆国の国際政治学者。ジョージタウン大学準教授。ハーバード大学卒業後、オックスフォード大学大学院で学び、博士号取得。国務省およびアメリカ国家安全保障会議でヨーロッパ問題を担当。またプリンストン大学でも教えていた。単著;The Vulnerability of Empire, (Cornell University Press, 1994).The End of the American Era: U. S. Foreign Policy and the Geopolitics of the Twenty-first Century, (Knopf, 2002).坪内淳訳『アメリカ時代の終わり(上・下)』(2003年)、How Enemies Become Friends: The Sources of Stable Peace, Princeton UP, 2010.No one’s world: the West, the rising rest, and the coming global turn, Oxford University Press, 2012.
[5] 「産業革命(industrial revolution)」は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命、それにともなう社会構造の変革のことである。1733年から1840年付近までの第一次産業革命と、それ以降の第二次産業革命に大別することも可能である。産業革命において特に重要な変革とみなされるものには、綿織物の生産過程におけるさまざまな技術革新、製鉄業の成長、そしてなによりも蒸気機関の開発による動力源の刷新が挙げられる。これによって工場制機械工業が成立し、また蒸気機関の交通機関への応用によって蒸気船や鉄道が発明されたことにより交通革命が起こったことも重要である。経済史において、それまで安定していた1人あたりのGDP(国内総生産)が産業革命以降増加を始めたことから、経済成長は資本主義経済の中で始まったともいえ、産業革命は市民革命とともに近代の幕開けを告げる出来事であったとされる。
[6] 18世紀初頭まで、インドと中国で世界GDPの約半分を占めていた。中国では、10~13世紀の「宋代」には、世界でもっとも高度な経済システムと都市文明が発展していた。当時、製鉄、印刷、羅針盤、火薬などの技術革新で先進的だった。明清時代にも「銀のグローバル経済」の中心として繁栄。スペイン・アメリカから流れた銀が、最終的に中国に集中していた時代であった。官僚制度(科挙)を通じて、合理的な中央集権国家を形成。西洋より先んじていた。インドでは、ムガル帝国(1526–1857)は世界最大級の経済大国で、繊維産業を中心にグローバル輸出を牽引していた。当時、インドではmイスラム、ヒンドゥー、仏教、キリスト教が共存。宗教寛容な統治体制が形成されていた。また、イスラム圏においては、8~13世紀の「イスラム黄金期」には、数学(アラビア数字、代数学)、天文学、医学などで世界をリードしていた。そして、地中海からインド洋、アフリカ東岸までつなぐ交易ネットワークを構築しており、ムスリム商人は「グローバル経済の先駆者」だった。
[7] 「購買力平価(purchasing power parity、PPP)」とは、ある国である価格で買える商品が他国ならいくらで買えるかを示す交換レート。外国為替レートの決定要因を説明する概念の一つ。為替レートは自国通貨と外国通貨の購買力の比率によって決定される。1921年にスウェーデンの経済学者、グスタフ・カッセルが『外国為替の購買力平価説』として発表した。
[8]データの出所は、Angus Maddison (2007)“Contours of the World Economy 1-2030 Ad: Essays in Macro-economic History”、アンガス・マディソン(2004)『経済統計で見る世界経済2000年史』、―(2015)『世界経済史概観』、
[9] 世界における経済のシェアと人口のシェアを比較してみると、1800 年頃までは、各地域とも、ほぼ経済規模と人口規模が見合っていたが、1800 年代以降、欧米諸国の経済成長が顕著となり、経済の規模が人口の規模を2~3倍程度上回るようになった。この傾向は、特にアメリカ・オセアニア地域で顕著になっている。逆に、アジア、アフリカ地域は、人口規模以下の成長しか実現できない時期が続き、欧米諸国との格差が大きく開くこととなった。
[10] イアン・ブレマー(Ian Bremmer)、1969年11月12日 -、米国の政治学者、コンサルティング会社ユーラシアグループ社長。著書;The J Curve: A New Way to Understand Why Nations Rise and Fall(英語版), Simon & Schuster, 2006.The end of the free market: who wins the war between states and corporations? Portfolio, 2010.『自由市場の終焉:国家資本主義とどう闘うか』有賀裕子訳、日本経済新聞出版社、2011年、Every nation for itself: winners and losers in a G-zero world, Portfolio/Penguin, 2012.『「Gゼロ」後の世界:主導国なき時代の勝者はだれか』北沢格訳、日本経済新聞出版社、2012年、Superpower: three choices for America’s role in the world, Portfolio/Penguin, 2015.『スーパーパワー:Gゼロ時代のアメリカの選択』奥村準訳、日本経済新聞出版社、2015年、Us vs. Them: The Failure of Globalism, Portfolio/Penguin, 2018.『対立の世紀:グローバリズムの破綻』奥村準訳、日本経済新聞出版社、2018年 The Power of Crisis: How Three Threats–And Our Response–Will Change The World, Simon and Schuster, 2022.『危機の地政学 – 感染爆発、気候変動、テクノロジーの脅威』稲田誠士訳、日本経済新聞出版社、2022年等多数。
3. 「無主の世界(No One’s World)」の諸相
プチャンもブレマーも、いずれも、世界の覇権国のリーダーシップが崩れた後の国際秩序の空洞化についての鋭い洞察を展開し深刻な危機感を示している。
カプチャンは、多様な秩序が併存する混合秩序世界を想定し、各国が自国のモデルを重視することで共通のルールづくりが困難になる点を懸念しており、多元的・相対主義的な秩序の中でいかに妥協するかが鍵となると提言している。
方や、ブレマーは、リーダー不在による協調困難な混乱した世界を想定しており、リーダー不在の中で意思決定が停滞し危機管理が後手に回るリスクを懸念しており、そもそも誰も責任を取りたがらない時代のリスクをどうとってゆくのかが鍵であると提言している。
こうした「ポスト西洋=多極化の世界」は、一方では可能性を秘めているものの、課題山積である。
現実には、リーダー不在で混乱しやすい深刻なリスクを内包しており、混沌としており、まさに、「トランプ的世界」と形容できよう。1つ明かなことは、これからの国際社会に「トランプ後」はない。あるのは常態化した「トランプ的世界」なのかもしれないということである。
そして、今後重要なのは、「どのように多極化した世界で協調と秩序を築けるか」であり、もはや「誰が覇権を握るか」ではないということである。「無主のGゼロ世界」の本質が、ここにある。
かような「無主のGゼロ世界」は、権力が分散され多極化し、価値観が多様化し、民主主義 vs 権威主義、自由貿易 vs 国家資本主義等の対立軸が鮮明化・顕在化し、気候、安全保障、パンデミック等国際公共財の供給者が不在である。
「無主の世界」では、民主主義、自由主義といった従来型の西洋中心の価値観が普遍的な規範ではなくなると同時に、中国、ロシア等のBRICs諸国や、中東、グローバル・サウス等を含めた非米地域などが、それぞれ独自の政治・経済モデルを主張するようになる。その結果、グローバルな秩序の代わりに、地域ごとに異なるリーダーシップや規範が生まれる。そして、各国・地域が「自分たちのやり方」を追求することで、国際秩序の分散化が進む。
世界は、ルールに基づく秩序ある世界から、ルールが多元化した世界へ変質してゆく。必然的に、国連、WTOなどの伝統的国際機関が十分に機能せず、「制度の空白」が生まれやすくなり、アドホックなその場限りの連携や非公式ネットワークが台頭する。そこで、悩ましい問題が浮上してくる。そして、紛争の抑止力が弱まり、「ルールなきジャングル」になりかねない。グローバル課題(気候変動・戦争・貧困)に対応しにくくなる。こうした中、「無主のGゼロ世界」における人類の持続可能性を担保できる新たなプラットフォームの構築が、喫緊と課題となる。
「真に重要な課題は、この世界の大転換をうまく進めて、次の世界へ平和的かつ計画的にたどりつくことである。」と喝破したカプチャンの言葉は、まさに正鵠を射ている。
こうした無主の世界「Gゼロ世界」では、以下4つの諸相が想起できよう。
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<無主の世界「Gゼロ世界」の諸相>
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●多元的秩序(Pluralistic Order)の仕組み
一つの価値観や制度を押しつけず、相違と共存を前提とする枠組みで、地域的・文化的多様性を認めた「共通のルールセット」の構築がされる世界。国連等の国際機関も、従来型の一元的な「一致団結方式」ではなく、むしろ分野別連携を軸として「機能的協調主義」に依拠するようになる。
●分野別多国間主義(Issue-based Multilateralism)の仕組み
気候変動、貿易、感染症、AIなど、テーマごとに柔軟な連携をしてゆく仕組みで、従来型の固定的なG7や国連に代わって、「AI規範の共通ガイドライン」や「気候危機」等の課題ごとの「目的別連合体」や「連携ネットワーク」方式を重視する。
●小規模・柔軟な連携単位(Minilateralism)の仕組み
すべての国を巻き込むことが不可能であるので、意思決定可能な少数国による連携を構築する仕組みで、既存のクアッド(Quad)の進化形や、気候先進国による脱炭素協定等、小規模・柔軟な連携が共存する。
●ポリセントリック・ガバナンス(Polycentric Governance)の仕組み
単一の国際機関ではなく、複数の権威が並立する仕組みで、民間セクター、都市、NGOなど非国家主体も含む「協調エコシステム」が共存する。
こうした4つの諸相は、どれも単独で現出するのではなく、各種合成・併用した形で、今後の新しい世界秩序の模索が進められてゆく中で登場する風景である。
しかし、「Gゼロ世界」ゆえに悩ましい課題も多い。交渉が複雑化することに伴う「協調コスト増大」問題、誰も主導しないために起こる「責任の希薄化」問題、価値観・制度の違いによって派生する「信頼構築の困難さ」問題が起こる。こうした諸問題に対して、いかに柔軟で参加型の秩序へ移行させながら中央集権的な仕組みから分散的秩序へ移行できるか、いかにしてグローバル・サウスの台頭を念頭に「正統性ある多元的秩序」の形成を進めれるか、そして、いかにして気候危機問題等の地球規模課題への新しいアプローチを構築できるか、難問山積ではある。
かつての覇権国米国主導のリベラル国際秩序が後退し、中国やEUも明確な覇権を取らない、あるいは取れない中、多極的で流動的な国際構造が続く「無主のGゼロ世界」では、国際的リーダーシップの空白、規範やルールの多元化・競合、そして協調の不確実性と脆弱性が併存する海を突き進む「海図なき航海」にも似た世界が待ち構えている[11]。はたして、その新しい未知の世界に、我々は、いかなる地平性が展望できるのであろうか。
[11] 米国が「トランプ2.0」で「米国第一主義の国」に変わり対外的に二国間貿易協定(Bilateral Trade Agreements)を重視する中、「無主のGゼロ世界」を念頭に地球儀を俯瞰した貿易体制の再構築が急がれる。わが国も貿易構造を極力多角化することで、米国の振る舞いがわが国経済に及ぼす影響を小さくしていく必要がある。EUも「環太平洋パートナーシップ協定(Trans-Pacific Partnership;以下TPP)」の進化形である「包括的及び先進的な環太平洋パートナーシップ協定(Comprehensive and Progressive Agreement for Trans-Pacific Partnership;以下CPTPP)」との協調や中国やインドとの連携等で貿易の多角化を図るべく模索している。2025年時点でCPTPPには英国が正式に加盟を果たし、中国や台湾の加盟申請が進められている。日本にとっても、今後、CPTPPとの補完的な「地域的な包括的経済連携協定(Regional Comprehensive Economic Partnership;以下RCEP)」はもちろんのこと、存在感を高めているグローバル・サウスとのそれぞれのメリットを活かしながらの連携強化も重要となるであろう。
4. 「無主のGゼロ世界」における「EU型多極協調モデル」の含意
「海図なき航海」にも似たグローバル・ディセンサスが常態化した「無主のGゼロ世界」は、まさに五里霧中で悩ましく難問山積の感もある。はたして、これから、いかなる未来像を描くことができるのであろうか。そして、人類共通の喫緊の課題である気候危機問題解決や恒久的平和構築のためにいかなる処方箋を描くことができるのであろうか。その「正解」は、誰も知らない。
明かなことは、来るべき「無主のGゼロ世界」において、幾つかの課題が想定されることである。
気候危機問題解決においては、まず、最初に、国際協調の欠如でCOP等の国際会議などでの合意形成がますます困難になってゆくことが懸念される。また、責任の所在が曖昧なため、約束不履行や「炭素漏れ」(carbon leakage)を防ぎづらい問題が浮上する可能性がある。さらには、米国をはじめ「自国第一主義」の復活によって長期的な気候政策の一貫性が損なわれる本質的な懸念もある。
また、恒久的平和構築においては、国際安全保障の担い手が不在であることが致命的な問題として浮上する。従来の覇権国米国のような「世界の警察官」がいないからである。そして「治安の空白地帯」が拡大するリスクが想定される。同時に、軍拡競争や代理戦争の火種がくすぶりやすい懸念すらある。さらには、サイバー空間や宇宙空間など、新しい安全保障領域での規範が不在かつ未整備のまま放置され、新たな火種となる可能性があり、恒久的平和構築に取り組む際の足かせとなる懸念がある。難問山積である。
しかし、こうした難問山積にも見える諸課題に対して、絶望することも、悄然とすることも不要である。なぜなら、困難ではあるが、すべて解決可能であり、ヒントはいくつもあるからである。
気候危機問題解決におけるヒントの材料としては、EU、中国、都市ネットワーク、市民社会など複数のアクターが自主的に気候リーダーシップを発揮する可能性もある。また、ESG投資、グリーンエネルギー企業など民間部門で技術革新等を軸に国家を超えて行動する可能性もあろう。さらには、グローバル市民社会の貢献も期待できよう。「無主のGゼロ世界」ならではの「リーダーなき連帯によるネットワーク構築」も大きな貢献が期待できよう。
また、恒久的平和構築におけるヒントの材料としては、「無主のGゼロ世界」は覇権争いが不在な世界でもあり、従来の冷戦型のブロック対立がないぶんだけ紛争リスクが緩和される可能性がある。また、国連等の全球的な国際機関の機能不全が顕在化する一方で、アフリカ連合、ASEANなど地域的な平和イニシアチブの自律性が強化される余地がある。
かくして、「無主の世界」に対するもう一つの可能性ある「未来像」を描くことは十分可能である。
こうした中、あらゆる選択肢と可能性のなかでも、特に注目に値する先行事例がある。EUがすでに体現している「EU型多極協調モデル」である。一国単独ではなく、複数の国・地域が連携して国際秩序やルール作りを進めるモデルである。そこに「無主のGゼロ世界」における未来像のデッサンのヒントと「解」がある。このEUの先行事例からの学びは示唆に富んでいる。
「EU型多極協調モデル」の特徴は、以下の4点である。
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<EU型多極協調モデルの特徴>
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1. 主権国家の協調による秩序形成
各国は独自の主権を保ちつつ共通の価値観や目的のもとに政策を調整する仕組みである。完全な統合国家ではなく柔軟な連携体を構築する。EU型多極協調の典型的な証左でもある共通通貨ユーロやシェンゲン協定(Schengen Agreement)[12]、共通外交・安全保障政策(CFSP)など、ヒントの材料に枚挙に暇はない。いずれも「無主のGゼロ世界」における未来像のデッサンの下地になりうる。
2. 「ルール」による統治制度によるガバナンス
EUは法制度・合意プロセスを重視し、「力」ではなく、交渉・妥協・合意形成を基本として、あくまで「ルール」で熟議を経て統治を進める。
3. 多極的なリーダーシップ
EU内には単一のリーダー国は存在しない。まさに「無主」である。ドイツ、フランス、イタリア等の複数の中心国が礼節を維持しながらバランスを取りながら運営している。一国依存を避ける多極協調のメリットが顕在化している。
4. 共通の価値に基づく連帯
EU内ではあるが民主主義、法の支配、人権、環境保護といった「規範的価値」を共通基盤にする。これらの価値が各国の政策や外交行動の指針となる。地球課題への対応においては、多国間でルールと制度を作り、地球温暖化や技術倫理などに対応する。
むろん合意形成に時間がかかり意思決定が遅いことや統一的な外交力や軍事力には限界があること。内部の価値観や経済格差による分裂リスクがあること等の課題もある。しかしこれらの懸念は解決可能である。こうした課題は「EU型多極協調モデル」のメリットを打ち消す根拠にはならない。その多くが、現にEUが試行錯誤している経験値からの学習も可能である。可能性は無限大である。
それでは、はたして、来るべき「無主のGゼロ世界」の地平線の向こうに、「EU型多極協調モデル」をヒントに、新たな未来像のデッサンを描く主体は誰なのであろうか。もはや、その主役は、米国ではなかろう。米中間の緊張感の渦中にいる中国も、ウクライナでそれどころではない欧州にも、その余裕はないのかもしれない。「無主の世界」に、力を拠り所にした大国の出番はないであろう。
実は、いよいよ、日本が、満を持して途上する場面なのではないかと思っている。現下の米中2大大国間のややこしく混迷したきな臭い対立軸の緊張感の狭間に地理的にも地政学的にも位置している日本こそが、欧米流の価値観も共有出来ておると同時にアジアの一国として中国とも真摯な対話が可能な日本こそが、唯一未来志向的な提言ができる稀有な立場にあると思っている。
はたして、エマニュエル・トッドは(Emmanuel Todd )は、かつて「西洋の敗北は、今や確実なものとなっている。しかし、一つの疑問が残る。日本は、敗北する西洋の一部なのだろうか。」と語った。この示唆には、重い含意とヒントを、そして、日本に対する彼特有の熱い期待を感じる。
[12] 「シェンゲン協定(Schengen Agreement)」とは、欧州の国家間において国境検査なしで国境を越えることを許可する協定。
5. 「多主の秩序(polycentric order)」としての「東アジア共同体」構想の含意
ここで、さらに議論を一歩進めてみたい。以下、ささやかな「試論」を共有したい。
来るべき「無主のGゼロ世界」における「EU型多極協調モデル」のモデル第1号の舞台は、東アジアが最適だと考える。ここで一石を投じるべく、以下「東アジア共同体」構想[13]を提起したい。
これは、「無主のGゼロ世界」を念頭にした「西洋の時代の終焉」後の新しいモデルである。EUからの学びはあるものの、普遍的な理念先行ではなく、地域的・実利的な協力に重きが置かれる。従来の西洋流の全球的な一般均衡を追求する普遍性ではなく、地域的な「部分均衡」を目指した、思想も理念も異なる多極的な国家同士の「実利」を基軸にした「現実主義的な協働モデル」である。
「東アジア共同体」構想は、「EU型多極協調モデル」のアジア版である。危機問題解決と恒久的平和構築に資する「多主の秩序(polycentric order)」としての新しい未来志向的なモデルである。
まず、中国・韓国・日本の3か国から始めるが、ここで日本が率先して提言すべきだと考えている。この3か国の協働により、世界に先駆けて再生可能エネルギー時代に向けたエネルギー・シフトを軸としたIoTプラットフォームに接続した「協働型コモンズズ(collaborative commons)」を構築することにより、未来志向的な低炭素社会型の新たな超国家モデルを構築する構想である。その射程の先には、やがて、近未来のアジア全域への拡張性も想定している。
ちなみに、「協働型コモンズ」は、資源やサービスを国家所有や企業独占ではなく、超国家的な協力・共有の形で管理・利用する仕組みである。経済思想家ジェレミー・リフキン(Jeremy Rifkin)が著書『The Zero Marginal Cost Society(限界費用ゼロ社会)』[14]で論じた「資源共有による所有からアクセスへの価値転換」に拠る21世紀の新しい経済・社会モデルである。
深刻な気候変動問題に直面し、過酷な原発事故に何度も遭遇し修復不可能なカタストロフなリスクを体験した今、エネルギー供給システムを、気候危機の元凶である石油・石炭・ガスや原子力から再生可能エネルギーに切り替える「エネルギー・シフト(Energy Transition;独Energiwende)」は、最も合理的な選択でもと同時に歴史の必然である。そして、人類の持続可能性を担保する必須不可欠な「鍵」でもある。世界随一の経済成長エリアでありその成長維持に大量のエネルギー供給の確保が不可欠である東アジア地域において、エネルギー・シフト実現を担保する恒久的プラットフォームを必要不可欠な要件として実装した「東アジア共同体」構築は、未来志向的な拡張性を秘めており、「東アジア共同体」構築の成功が世界にもたらす裨益は大きく、その歴史的価値は重い。
それでは、なぜ、東アジアなのか。なぜ、中国と組むのか。それには理由がある。それは「西洋の時代の終焉」後の舞台として、欧米でなくアジアから新しい世界観を発信するという地理的な意味だけではない。東アジアにおいて「EU型多極協調モデル」を応用して「東アジア共同体」を構築することに、気候危機問題解決と恒久的平和構築に同時に資する意味で、必然性と歴史的重要性があるからである。その理由を、簡単に論点整理すると、以下3点を挙げることができる。
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<「東アジア共同体」の必然性と歴史的重要性>
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●東アジア地域が世界随一の経済成長エリアであること
東アジア地域は、世界随一の経済成長エリアであり、その成長維持に大量のエネルギー供給の確保が不可欠である。本共同体構築によって域内エネルギー自給率を向上させることで、アジア地域のエネルギー海外依存度を低め、エネルギー安全保障の観点からも重要かつ有効な貢献が期待できる。
●世界有数の再生可能エネルギーのポテンシャルを誇るエリアであること
東アジア地域は、世界随一の再生可能エネルギー豊富な地域である。本共同体構築による東アジアにおけるエネルギー・シフトの経済的な利益は、現状維持ケース(business as usual)による利益をはるかに上回る。
●戦争の潜在的リスクを抱えている地域であること
東アジア地域には、中国・北朝鮮・ロシアと3つの核保有国がおり、今後最も大規模なエネルギー資源を巡る紛争や戦争危険の潜在的リスクを抱えている地域である。台湾問題等の火種もある。万が一、何らかのきっかけで紛争や戦争が起った場合、周辺国の日本はじめ、核保有国も含め誰も得をしないし、幸福にならない。かような百害あって一利なしの戦争危険を、持続可能な恒久的平和を目指す本共同体構築による資源共有を通じて、本共同体参加国間で結ばれるエネルギー生産の連帯性は東アジア諸国間における不毛な戦争や紛争の可能性を制約する安全装置となる。そして戦争や紛争が事実上不可能になることを示す意味で、恒久的平和を担保するためのプラットフォームとしての貢献が期待できる。
「東アジア共同体」をより具体化した構想が、「東アジア浮体式洋上風力共同体(East Asia floating wind turbine based Energy Community)」構想である。東アジアの海域で大規模なウインドファームを、日中韓3か国の出資で創設した超国家的国際機関の所有にして共同で事業化する構想である[15]。水深が深い東アジア周辺の海では、着床式ではなく「浮体式洋上風力発電」が主力となる。その再生可能エネルギーで生み出されたカーボンフリー電気を、日中韓3か国で公平に享受する。
この構想のヒントは、欧州における恒久的平和構築プラットフォームであった「欧州石炭鉄鋼共同体(European Coal and Steel Community:以下ECSCと略称)」[16]に依拠している。ECSCは、石炭と鉄鋼は国家が戦争を起こすのに欠かせない資源であるがゆえ、あえて敵同士であった両国の間でこれらの資源を共有するという戦争を完全に不可能とする政治的なイノベーションであった。この平和構築プラットフォームの仕掛けを東アジアに応用するものである。東アジアにおいて、未来志向的な再生可能エネルギーを軸に、超国家的な管理を行う「部門統合方式」の下で、経済的な手段によって戦争をなくすという安全保障上の目的を達成しようとするアジア版ECSCモデルとなる。アジア版ECSCモデルたる「東アジア浮体式洋上風力共同体」は、気候危機問題解決と平和構築への貢献が大きいと同時に、「無主のGゼロ世界」のモデルとしても最適である。
「無主のGゼロ世界」では、一つの価値観や制度を押しつけず共存を前提とする枠組みが求められ、地域的・文化的多様性を認めた「共通のルールセット」の構築がされる多元的秩序の仕組みが鍵となる。その意味で、まさにこの「東アジア浮体式洋上風力共同体」は、地域を東アジアに限定し意思決定可能な少数国による連携構築を前提としており、かつ「機能的協調主義」に依拠した仕組みである。また、気候変動問題解決の軸となる再生可能エネルギーというテーマに特化して柔軟な連携をする仕組みは、分野別多国間主義(Issue-based Multilateralism)にも依拠している「目的別連合体」でもある。
この「東アジア共同体」という未来志向的な脱炭素社会型の新たな超国家モデルを世界に提示できる意義は大きい。地域に特化した、理念や体制等を異にする国家同士の実利を軸とした目的別連携という「新たな国際政治ガバナンスモデル」を世界に向けて発信することで、世界中の国家モデルのパラダイムシフトにも大いに貢献する。ポスト・ウェストファリア体制下の新しい共同体として、国際政治ガバナンスモデルを抜本的に変える歴史的意義は大きい。
プリンストン高等研究所のロドリック教授(Dani Rodrik)[17]は、その著書『グローバリゼーション・パラドクス(The Globalization Paradox)』において、現今の世界情勢は、グローバリゼーション(economic globalization)と、国家主権(national determination)、そして民主主義(democracy)の3つを同時に成立することは不可能であり、どれか一つを犠牲にするトリレンマを強いているとして「政治的トリレンマ(fundamental political trilemma)」[18]を論じた。そして、その解決方法として、国家主権と民主主義を擁護し無規制なグローバリズムに網を掛ける手法を提言している。
この「東アジア浮体式洋上風力共同体」は、再生エネルギーを超国家的な機関によって共有管理する共同体の構築によって、グローバリゼーションと国家主権と民主主義が両立できる異次元なプラットフォームを構築することで、難解なトリレンマ問題の解を提供できるイノベーションでもある。
全てのプレイヤーが、一定のルールのもと、自分の利得が最大となる最適な戦略を選択し合っている状態のことを「ナッシュ均衡(Nash equilibrium)[19]」と呼ぶ。ゲームに他のプレイヤーがどんな選択をしても、自分の戦略が他の戦略より常に良い戦=つまり「支配戦略」があるときは、プレイヤーがそれを選ぶことがゲームの解になる。「東アジア共同体」は、「ナッシュ均衡」を担保している。米中間の不毛な緊張感に当惑している中国にとっても、有効な「解」となろう。
かつて、オーストラリア国立大学のガバン・マーコック(Gavan McCormack)名誉教授[20]は、東アジアの平和は、「単独の大国の覇権の下での平和体制ではなく、協商主義として、権力の均衡と共同体を重視したかたちをとるべきである。」と論じていたが、まさに実利的な協商主義の「地域環境レジーム」のプラットフォームとして、この「東アジア共同体」の意義は大きい。
2018年12月にポーランドで開催されたCOP24の会場で再会したヨハン・ロックストローム(Johan Rockström)博士は、「世界を持続可能にする成功の物語が必要である」と述べていたが、まさに、本構想が、その「成功の物語」の端緒になれたら望外の光栄である。
「東アジア共同体」構想には、さらなる「希望」も込められている。この「EU型多極協調モデル」が、東アジアで実装され、成功した暁には、将来的にアフリカ連合、ASEAN、ラテンアメリカ諸国連合などの世界中の他地域に広がる可能性としての「希望」である。「無主」ではなく「多主の秩序」が生まれる可能性としての「希望」である。
この「希望」の形は、むしろ、従来型の「西洋の時代」の米国覇権の下の国際秩序よりもより優れより持続可能性の高い高次システムに進化する可能性も十分あると考えている。まさに、「雨降って地固まる」である。
トランプによって、すでに「パンドラの箱」は空いてしまった。一気に噴き出て来た禍々しいものが世界中に不安を拡散させた。しかし、その後に、「パンドラの箱」の底には、ほのかに光る「希望」があった。
それは、「EU型多極協調モデル」という「希望」である。
(end of documents)
[13] 「東アジア共同体」構想は、世界の脱炭素社会(decarbonized society)構築に向けたパラダイムシフトの潮流を視野に、東アジア地域における平和で持続可能な未来を希求して構想された協働型コモンズであり、再生可能エネルギー(renewable energy)を軸とした「東アジア再生可能エネルギー共同体構想」と、炭素通貨(carbon money)を軸とした「東アジア炭素通貨圏構想」と言う2つの未来志向的なプラットフォームから構成される。古屋力(2019)「東アジア脱炭素経済共同体構想の意義とその実現可能性について―東アジア地域における炭素通貨と再生可能エネルギーを軸とした「協働型コモンズ」構築の必然性と可能性についての一考察―」。古屋(2017)「東アジアエネルギー共同体の意義」(アジア研究所平成26・27年研究プロジェクト「東アジア地域における環境エネルギー政策共同体の可能性に関する考察」)の続編である。
[14] Jeremy Rifkin (2014)”The Zero Marginal Cost Society”
[15] 「東アジア浮体式洋上風力共同体」の設置サイト候補は、「東シナ海(Eastern China Sea;Dong Hai)」や「南シナ海(South China Sea;Nan hai)」が考えられる。あえて、エネルギー資源を巡って紛争可能性の高い地域が最適地だと考える。戦争に明け暮れてきた欧州を平和にするため、フランスと西ドイツ間の戦争を物理的に不可能にする方策を考え、独仏の石炭と鉄鋼の資源を共同の機関の管理下に置いたかつてのESCCからの学びである。特に東アジア地域の中でも「東シナ海」は、いままさに尖閣列島問題等で、アジアにおける火種となる危険性の最も高い地域でもある。だからこそ、かつて欧州において石炭エネルギー豊富な地域であると同時に紛争の火種でもあったアルザス地域と同様に、この東アジアの火薬庫になりかねない大陸棚地域において、共同管理によって経済的な手段によって戦争をなくすという安全保障上の目的を達成しようとするモデルの最適な候補地であると言えよう。「東シナ海」地域において、東アジアの日本・中国・韓国関係当事国の合作で、共同出資によって、海洋上に何千何万という幾多の浮体式洋上風力を建設し、「東シナ海浮体式洋上風力共同体」を構築する構想である。
[16] 「欧州石炭鉄鋼共同体(European Coal and Steel Community:ECSC)」は、いまから73年前の1952年7月22日に欧州で発足した超国家的な共同体である。長らく敵対してきたフランスとドイツとの間での平和を強固にする目的で創設され、最高機関が石炭・鉄鋼業を共同管理し、独占を規制した自由で公正な市場を作る構想に基づき、両産業の育成策を通じてヨーロッパの平和と経済発展をめざした。ECSCは、石炭と鉄鋼は国家が戦争を起こすのに欠かせない資源であるがゆえ、あえて敵同士であった両国の間でこれらの資源を共有するというきわめて象徴的かつ戦争を完全に不可能とする政治的なイノベーションであった。ECSCの特徴である「超国家性(supranationalism)」が、協働型コモンズとしての「東アジアエネルギー共同体」に与える含意は極めて重要である。
[17] ダニ・ロドリック(Dani Rodrik)教授は、トルコ出身の経済学者。プリンストン高等研究所教授。専門は国際経済学、開発経済学、国際政治経済学。イスタンブール生まれ。ハーバード大学卒業後、プリンストン大学大学院に進学し、1985年に経済学の博士号取得。
[18] 「政治的トリレンマ(fundamental political trilemma)」は、⑴グローバル化を果たそうとすれば、主権と民主主義とどちらかを犠牲にせざるをえない。⑵グローバル化を図り、民主主義も守ろうとすれば、主権をある程度諦らめざるを得ない。⑶民主主義も主権も維持しようとすれば、グローバル化の実現は難しい。とするトリレンマを表現したもの。
[19] 「ナッシュ均衡(Nash equilibrium) 」は、「ゲーム理論」における「非協力ゲーム」の解の一つ。各プレイヤーが他のプレイヤーの戦略を前提に、自分にとって最適な戦略を選択し、それが互いに安定している状態を指す。換言すれば、どのプレイヤーも自分の戦略を変更することでより高い利得を得ることができない状況を意味している。
[20] ガバン・マーコック(Gavan McCormack)名誉教授。オーストラリアの歴史学者。オーストラリア国立大学名誉教授。専門は、東アジア現代史、チュチェ思想、日本近現代史。