地球が未来へと持続していくために今、求められる人の意識や行動の変革。地球SAMURAIでは、そこに波動を及す野心的な人物にクローズアップしている。Vol .3では、武本 匡弘氏を取材した。40年以上、プロダイバーとして国内外の海に潜ることでその変容を捉え、発信し続けてきた武本氏。エコ・ストアー「パパラギ」を藤沢市に設立し、使い捨て消費やプラスチックに依存する生活を見直し、環境負荷の少ないライフスタイルの提言も精力的に行っている。そんな同氏が重視するのは、目撃者というスタンスだった。
自身を変えた“死に至る海”との出会い
──プロダイバーとして人生を歩もうと思われた理由は何でしょうか。
武本:もともと両親が北海道で海上保安庁に勤めており、父は海上保安官、母も女性職員でした。そこで2人が出会って結婚し、私が誕生しました。父は海で救助員のボランティアもしておりましたし、よく遊んでくれた叔父も海上保安官。小さいときから接していた人や環境のすべてが海です。自然に海に対する仕事を意識するようになりました。そして、子どものときや青春時代に見てきた海はいつも楽しく、心を癒してくれる場所でした。
──環境活動に身を投じるようになったきっかけは、沖縄の海で白化したサンゴとの出会いと伺っています。どのような衝撃を受けられましたか。
武本:ダイビングの仕事に就く前、24歳のときに初めて沖縄の海に潜ったときは素晴らしいサンゴの景色が広がっていました。しかし、1999年のある日、ダイバーとして訪れときには白化現象が始まっていて、目を覆いたくなるような衝撃を受けました。
それから世界各地の海で朽ち果てていくサンゴの姿を目の当たりにしたのです。少なく見積もっても地球全体のサンゴの半分以上、あるいは6割から7割のサンゴが死滅していると私は見ています。そして、その変化の速度は激しさを増しています。今年でダイビングをはじめて46年になりますが後半の20 数年で見てきたのは、幼い頃に見ていたものとは、まったくちがう死に至る海になっています。
環境活動家であり、プロダイバーである理由
──2015年気候変動・海洋漂流ごみ・国際交流を目的に「太平洋航海プロジェクト」を開始すると共に「環境活動家」としての活動をスタートさせました。その肩書を名乗る意義はどこにあるとお考えでしょうか。
武本:国内外の海の中を様々に見てきましたが、「太平洋の中心はどういった状況になっているのか?」と考え、自ら操船するヨットで航海、気候変動・海洋汚染などの探査を目的に航海を始めたのがこのプロジェクトです。航海では美しいはずの太平洋の大海原でも漂流するゴミを目にし、「海は、ただならない状況に陥っている」と痛感する日々でした。
そして、この頃から私は環境活動家とプロダイバーをセットで名乗るようになりました。
スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさんをはじめ、環境活動家を名乗る人が欧米では普通にいます。それは職業であるという意味ではなく、出会った人の中では「私は弁護士で環境活動家です」「私は画家で環境活動家です」「私は大学院で学ぶ環境活動家です」といった具合に本業と環境活動家をセットにして紹介する人が多くいました。ところが日本では皆無です。日本では環境活動家と名乗ると「何それ?」と大体聞かれます。
実はプロダイバーも内心、不思議に思っている人も少なからずいると思います。プロサーファーというのは珍しくないでしょう。それは競技が成立し、生活の糧を得ているのでプロと名乗っています。しかし、プロダイバーはちがいます。アマチュアではなく、プロとして海の中を見ればいろいろなものが見える、という意味のプロなのです。
環境活動家であり、プロダイバーであるということは海から環境の危機を発信する役割を担っていると私は捉えています。たとえば太陽光線がエメラルドブルーの海面に反射して青く透明に見える沖縄の海を眺めれば、まだまだ地球は大丈夫だと思ってしまうでしょう。しかし水中ではサンゴが死に絶え、プラごみだらけになっています。環境活動家やプロダイバーの肩書を名乗るのは、あえて疑問を持っていただき、私が目撃者として本当の海の姿を語る狙いもあります。
「太平洋航海プロジェクト」では、いっしょにヨットに乗るクルーを公募しました。当初はヨットを運航するのに必要な経験者を雇うためでした。しかし、その後は地球環境の変化に興味のある人などに乗船してもらっています。年齢層は様々。自分が目撃したことを同じように目撃してもらい、発信できる人を育てることが最優先です。いっしょに目撃させたい。体感させたい。そう考えて仲間を募りました。
直視しないといけない地球の2つの危機
──マーシャル諸島を何度も訪問している理由を教えてください。
武本:1つは、マーシャル諸島のある太平洋中西部でサンゴをはじめとする水中の生態がどうなっているのか、を調べるためです。もう1つはこのエリアは戦後、核実験場となったため、故郷の島から強制移住させられた「核の難民」の人たちがいます。その人たちの話に耳を傾けることもここを訪れる理由になっています。サンゴの状態は訪れる度に厳しい状態になっていることがわかり、もはや壊滅的なところも数多くありました。それと同時に核の難民の皆さんが今度は気候変動による海面の上昇で島が沈み、気候難民になろうとしていることもわかりました。
今、世界は2つの危機に直面しています。それは気候危機と平和の危機です。その世界の縮図がここにあります。房総半島も日南海岸も、湘南海岸も浜の後退が顕著ですから、日本も対岸の火事ではありません。ウクライナ侵攻、イスラエルによるガザ攻撃など平和についても同じです。
──2019年にはエコ・ストアー「パパラギ」を開業した理由はどこにあるでしょうか。
武本:実は生活者も海を汚している当事者なのです。そこで水中のことだけではなく、毎日使う生活用品を通して環境の大事さを訴え、プラスチックを使わない生活へとシフトさせていくことが大事と考え、オープンしました。それまでの事業を譲渡したため、失敗はできません。そこで妻にも「力を貸してほしい」と頼み、息子たちにも手伝ってもらいました。「陸での生活スタイルを変えれば人も海も地球も元気を取り戻せるかもしれない」
そんな思いで創ったお店です。おかげ様で日本初のプラスチックフリーストアとして多くのメディアが取材してくれました。結果、日本全国にお客様が生まれ、「私もやりたい」という人が増えてきました。今、ここから商品を供給しているのは60団体以上います。また開店当初、お客様として熱烈に支援してくれた人たちがワーカーズとして今、支えてくれています。
一人ひとりの取り組みを政治の場に
──武本さんの活動は、「太平洋航海プロジェクト」のクルーやエコ・ストアー「パパラギ」のワーカーズなど一人から仲間へとその輪が広がっていくのも特徴のように感じます。我々一人ひとりの取り組みが多くの人に波動し、社会を変える大きな力になっていくには何が必要だとお考えでしょうか。
武本:最終的には政治だと思います。「パパラギ」がオープンし、すぐにNPOを立ち上げて、自発的に取り組む中でこの店のある藤沢市に気候危機非常事態宣言をさせることを実現できました。小学校の教室の断熱化や核兵器禁止条約に対する取り組みも同じです。すべてに共通するのは会派を超えて、ほぼ議員全員に会ってきたことです。
「政治家ではなく、一人の人間として聞いてほしい」という想いをぶつけることで現状を変えることができました。日本では政治の話は、タブー視するムードがありますが、政治という仕組みを活用することで一人ひとりの取り組みを成果として実らせることになると思います。
──環境活動家、プロダイバーとしての様々な取り組みの他に講演活動も積極的に行っています。講演ではどのようなことを大切にしていますか。
武本:様々ありますが、必ず「僕は研究者ではないので、目撃者としての話をします」と前置きしてから講演に入ります。私の環境活動家、プロダイバーとしての活動は、実際に目の前で起きていた海の破壊を目撃することから始まりました。もちろん、目撃だけでは終わらず科学者との知見の共有も重要です。その上で自分の目で見たことを伝えることが、人の行動を変える大きな力になると思っています。だからこそ、私はこれからもずっと目撃者でありたいと考えています。
武本匡弘 氏 プロフィール
北海道小樽市出身。1985年ダイビング会社開設。1999年にはNPO法人パパラギ海と自然の教室設立。大学で環境総合演習を担当する他、多数の小中高校で海の環境授業を行ってきた。2015年より気候変動・海洋漂流ゴミ探査・国際交流等を目的に太平洋航海プロジェクトを開始。ヨットで日本~マーシャル諸島~ミクロネシア海域を航海、海の変化等を見ている。2019年にはプラスチックフリー・ゼロウェイストをコンセプトにしたエコ・ストアー「パパラギ」を藤沢市に開店。NPO法人気候危機対策ネットワーク代表 日本サンゴ礁学会会員、(公財)第五福竜丸平和協会協力会員
取材を終えて
凪のように穏やかな語調で取材に応じてくれた武本氏。しかし、その言葉には数々の危機を目撃し、変革のうねりを起こそうという強い信念が秘められていた。そして同氏がこだわる目撃者とは、手をこまねいて見ている傍観者ではなく、果敢な行動者であり実践者でもあると感じた。
(取材・記事 宮崎達也)