「私たちの土地と共同体は、大国のチェス盤の駒ではない。」
(Malene Vahl Rasmussen Mayor of Kommune Kujalleq, Greenland)

「希望をつくり出さなければならない。
希望というのは、自分で定める目的を、実現可能なものとしてとらえる仕方だ。」

(Jean-Paul Charles Aymard Sartre)

1.人間と自然の関係そのものをどう考えるか

人間同士の関係性は、お金だけではないことは、誰しも異論はなかろう。人と自然の関係も同様である。「人と自然の関係」そのものをどう考えるかは、極めて重要な根源的な問いである。
 
先日、鎌倉から本郷に出向き、定例の東京大学での研究会の「論文読み」に参加した。今年度最後の研究会であった。今回のテーマは、「IPBESの価値に関する評価報告書」であった。IPBES(イプベス)とは、生物多様性と生態系サービスに関する科学と政策の架け橋となる2012年設立の政府間組織である[1]。約150の加盟国が参加し、最新の科学的知見(アセスメント)に基づき政策提言を行う「生物多様性版IPCC」とも呼ばれる組織である。今回の論文は、natureへの寄稿論文Unai Pascual et al. (2023) “Diverse values of nature for sustainability” (持続可能性のための自然の多様な価値)であった[2]。事前に各自読んできたこの論文について自由闊達に意見交換した。
 
議論は多岐に及んだ。自然の価値は「計算」だけでは決められない。人と自然の関係そのものをどう考えるかが、持続可能性を左右する。権力の不均衡が問題。周辺化した人々の価値観を権力に対してどう守るか。倫理的な合意形成が課題。生物多様性は気候変動よりも自然保護に対して厳しく、価値の問題に不可分で、脱成長まで至る議論がある。基準の多重性。文脈依存性。自然資本の価値評価手法が難しい。国によって価値が違う。正義の評価。欧米主流的な視座からではないアジア的な価値観も重要等々。気候危機問題以上に複雑かつ難解でやっかいな生物多様性と生態系サービスに関する多岐な視点からの議論が面白く、大いに勉強になった。

気候危機問題解決のためのIPCCと、生物多様性問題解決のためのIPBESとの根本的な違いは、前者がグローバルな普遍性を前提に数値化された全球的な目標設定の下で統一行動がとりやすいのに対して、後者は地域固有の特性があり状況も政策もまさに多様性がある点にある。しかも、前者は物を言える人間が相手であるが、後者の究極の被害者は言語化出来ない生物である。IPCC以上に、生物多様性問題解決のためのIPBESがやっかいで難しい理由もここにある。
 
生物多様性問題解決のためのIPBESの政策判断で使われる価値を「数値・指標・お金」に置き換えたものをどう定めるかの問いは、古くて新しい課題であり、なかなか悩ましい。生物多様性危機を本気で解決するには、「自然をお金で見る考え方」だけを改め、人々が自然を大切にする多様な価値を、政治や経済の意思決定に組み込む必要がある。自然を「安売り」する社会から、自然と共に生きる社会へ。それが持続可能な未来への前提条件である。
 
「人間のためのもの」と見るか、「自然そのものが大切」と見るか、「正義」「責任」「調和」「思いやり」などの道徳的な価値をどのように大切にするかは、本来最重要な「鍵」であるはずである。その肝心要の流儀が、いまや致命的に欠落してしまっている。特に欠けてしまっているのは、「正義」「責任」「調和」「思いやり」などの道徳的な価値が内包された「地域や先住民の価値」を意思決定にきちんと取りこむことである。

(寄稿文全文へ続く)
 

(↓)寄稿文全文は下記リンク先PDFでご覧ください。

[1] IPBES(Intergovernmental Science-Policy Platform on Biodiversity and Ecosystem Services)は「生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム」で、科学的知見に基づいて生物多様性の保全と持続可能な利用を目指す国際機関である。いまから14年前の2012年に設立、150以上の国が参加している。「生物多様性版のIPCC」とも呼ばれ、報告書を通じて各国の環境政策に影響を与えている。一般には「イプベス」と呼ばれている。目的は、生物多様性と生態系サービスに関する科学と政策の橋渡しを強化することにあり、主な活動は、科学的評価報告書の作成、能力養成、知見生成、政策立案支援である。設立の背景は、気候変動(IPCC)と同様に、生物多様性についても信頼性の高い情報に基づいて国際的・国家的な政策形成を推進する必要性から2012年に設立された経緯がある。https://www.ipbes.net/about

[2] 「持続可能性のための自然の多様な価値(Diverse values of nature for sustainability)」著者;パスカル他(Unai Pascual et al.)https://www.nature.com/articles/s41586-023-06406-9