1.3 日本における「真の政治」と「真の民主主義」の不在
環境にも人間にも優しい「持続可能な社会システム」が、残念ながら、今の日本には不在である。
「幸福」と「ウェルビーイング」と「環境パフォーマンス」が良好な持続可能な国家を目指し、国民が希求する幸福を担保できる「持続可能な社会システム」を構築することは、「真の政治」の本義であり存在意義でもある。その政治を支えるのが「真の民主主義」である。しかし、日本では、その「真の民主主義」が機能不全に陥っており、「真の政治」がない。
日本における「幸福度」と「環境パフォーマンス」が低い問題の本質は、経済優先思考による富の「総量」の拡大という経済成長への固執と、その結果としての持続可能性の疎外の問題にある。
その問題の主な元凶は、「真の政治」と「真の民主主義」の不在にある。
民意が希求する「幸福」を担保できる「持続可能な社会システム」を構築し、その健全な運営の持続可能性を維持するのは、政治の最重要な役割である。その政治を健全に機能させ、しっかり民意を反映した政策推進ができているかをしっかり監視するのが民主主義システムの存在意義である。
しかし、日本では、その「真の政治」と「真の民主主義」が存在しない。
まっとうな民主主義システムが機能せず、民意が政治に反映しないまま、為政者の利権がらみの一部の既得利益者層に偏った不健全な政策運営が、厚顔無恥に、無批判なまま、断行されてしまっている。
いま、問題になっている政治資金問題も、その本質は、企業・団体献金にある。本来、国政を支えるのは、選挙権を持っている主権者たる国民である。企業や団体は、ステークホルダーではあっても、選挙権を有しない。本来、企業は、自社が提供する商品やサービスでその真価を問われるべき存在であり、国家の政策決定を左右する政治家に献金をして、その対価として、自社の利益に便宜を求めることは本義から反する。民主主義の本義からして、企業・団体献金は、直ちに全廃すべきであろう。
日本では、経済最優先が蔓延しており、競争圧力が高く、人々は、常に時間に追われ、人心は常時不安に支配され、穏やかさが失われている。その結果、そこには、「真の幸福感」がない。
しかも、「民主主義の機能不全」と「政治の失敗」の結果、再分配による平等化への社会的合意形成がなく、一部の既得権益層に偏った予算配分と政策決定がなされてしまっている。同時に、依然として「経済成長」優先の旧態依然とした古き思考習慣のまま、むしろひたすら富の「総量」つまり全体のパイを拡大して経済成長によって問題解決しようとする旧態依然とした誤った志向に偏向し、経済最優先の価値観からの脱却ができないでいる。そして、人心や人権がないがしろにされ、弱者が切り捨てられ、しっかりした福祉の仕組みが人々の平等や公正を十分担保しえない。
しかも、政治家に圧倒的な影響力を持つ企業・団体献金によって、政策決定が、本来の国民の厚生福祉や幸福追求ではなく、一部企業・団体の利益に有利な偏った方向に歪められて実施され、結果的に、国民の総意とは全く乖離してしまった政策が平気で横行することになる。それがために、もはや時代遅れの原子力発電や石炭火力発電への膨大な補助金や軍事費拡大が横行する一方で、方や、肝心の福祉や教育サービスの質的劣化と、弱者切り捨て政策が常態化し、社会システムとして人間への優しさが希薄化し、人権への深い配慮が疎外され、「幸福度」が衰弱し、地球環境への配慮や持続可能性といった政策課題は後回しになり、その結果、「環境パフォーマンス」が低位劣後することになっている。
むろん、ここで誤解してはならないことであるが、こうした指摘は、必ずしも、日本人1人1人が、利他心や人への優しさや、肝心な社会的連帯や公共性の意識や地球環境への配慮を実装していないという事を意味しない。むしろ、一般に、日本人は、世界標準を比較しても、自然を愛し、個々人1人1人は、優しく、自己主張もさほど激しくなく、利他心もあり、応対も丁寧で、誠実で、温厚な部類に属する。むろん、公共性の意識もあり、社会的連帯意識も豊かである。
しかし、こうした本来温厚なはずの日本人が、いざ企業や国家に集合した次元で、なぜか変質するのである。一種の匿名性を帯びた集団化による共同幻想のなせる業なのか、日本人の元来の国民性なのかは、定かではないが、いざ集団となると、本来個々人が生来実装しているはずの自己の良心や利他心を一斉放棄し、経済成長優先のドグマに囚われ、守銭奴のごとく経済最優先の「怪物」に化身するのである。個人から一旦組織の構成員となった次元で、もっぱら貨幣金融的価値観に支配され、一種の集団的奇行に走る傾向があるのである。
そして、なんとも不条理なことではあるが、本来の人間的な瑞々しい良心とまっとうな見識を持っているはずの主権者個々人の意思と、政治と言う不完全なシステムとの間には深い断絶がある。そのために、凶暴な装置に変質した政治権力の暴走を制御できずにいる。主権者たる国民の集合知で本来総意であるはずの政治が、実は、国民の民意と乖離してしまっている。そこに深刻な断絶と情報の非対称性がある。これは、一種の「合成の誤謬」と揶揄してもよかろう。典型的な証左として、先の第2次世界大戦における国家の暴走等、枚挙に暇はない。
本来、民意を誠実に国家の政策に結実する仕組みが「政治」であり、存在意義であるはずである。しかし、日本には、その健全な政治が不在である。ミクロの市井の個々の良心の相違と、マクロ的な集合知たる政治との間の断絶と乖離がある実態は、日本における政治システムの欠陥そのものである。これすなわち、日本では「真の民主主義」が有効に機能していないことを意味する。
日本は、かつて明治の初めから、西欧先進国より約1世紀遅れで近代工業社会へ離陸したあと、一貫して高い成長をとげ、とりわけ第二次大戦後の日本は、昭和の高度成長期に象徴されるように国を挙げて経済成長を絶対的な目標として、官民一丸となって経済的に豊かな社会を作り上げてきた。そして、1968年にはGDPが米国についで第2位になり、自他ともに認める経済大国となった。
しかしその物質的な豊かさは、やがて飽和。そして、2008年をピークに人口も減少に転じる。さらに気候変動や新型コロナに示されるように地球環境や生態系の有限性ということも顕在化する中で、こうした従来型の国を挙げての経済成長モデルにほころびが見え始め、限界が露呈する。もはや、従来型成長モデルの延長では、人々は疲弊し、個人の創造性は失われ、孤立と格差が深まっていくだけであった。
しかし、日本の政治は、こうした深刻な事態に気付かぬまま、あるいは、気づきながらも気づかないふりをしながら、立ち止まって自省することもなかった。自己変革をせずに、依然として経済成長がすべての問題を解決してくれるという妄信にも近い旧来型発想のまま、昭和的高度成長モデルのイナーシャを踏襲し続けた。
その結果、国内では、世界有数の過労死が多発し、自殺者や孤独死も世界有数の多さを生み出してしまっている。そして、気候変動対策でも「脱炭素社会」に向けた世界的潮流の中で、いまだにおよそ世界中から賛同を得れない石炭火力発電の存続維持に執拗に拘泥し、世界の趨勢から周回遅れの体たらくの醜悪な姿をさらし続け、その結果、不名誉な「化石賞 」を連続受賞して、恥ずかしいことに、「環境後進国」と揶揄されてしまっている。
要は、今の日本では、一応、表層的には、選挙制度もあり、民主主義が機能しているように見えているが、主権者たる国民の意思が、そのまま国政に反映せず、国民の総意と最終的な政策推進実施との間に、深刻な断絶と乖離と情報の非対称性があるのである。そして、政権与党は、多額の政治献金を注ぎ込んでくれて自らの政権の持続可能性を担保してくれる企業なり経済界の意向を、国民1人1人の幸福や安寧、さらには、地球環境の持続可能性よりも、優先して、その結果、経済優先、企業優先、若者・弱者軽視の政策が横行しているのが実態である。
その結果、社会保障財源のための税など負担の問題は先送りされ、その結果、国際的に見て突出した規模の膨大な借金を将来世代にツケ回し、地球環境への配慮や持続可能性といった政策課題は後回しになり、その結果、「環境パフォーマンス」が低位劣後することになり、世界から尊敬されない国になってしまっている。これでは日本の未来はない。
社会的連帯や公共性の意識を実装した「持続可能な福祉社会」がすでに実現している幸福先進国の北欧諸国から観ると、本来良識があり温厚なはずの日本人が集合しているはずの日本企業や国家の醜態が、実に奇異で不可解に映る。それは、日本特有の企業や政治の仕組みそのものの欠陥なのか、あるいは、日本固有の本質的な宿痾なのか。そして、いずれにしても、例外なく、その被害者は、いつも弱者たる無辜な日本国民なのである。
こうした事情もあり、なんとも不名誉な話ではあるが、かくして、日本は、「幸福度」でも「平等度」さらには「環境パフォーマンス」でも、ことごとく、低評価に留まったままでいるのである。
所得倍増という、アナクロニズムかと耳を疑うような、まさに高度成長期の日本を象徴する陳腐で時代遅れのスローガンを持ち出している現下の岸田政権が、方や「新しい資本主義」を標榜していること自体、なんとも皮肉な話ではあるが、これこそ、ややアイロニカルな言い方になるが、まさに「時代錯誤」で「羊頭狗肉」だと批判されても抗弁できないであろう。そうした時代遅れな発想の枠組み自体を転換していくことが、いままさに喫緊の課題なのである。
→次章:いまこそ「未来世代法」の立法化を(5) 3月13日(水)掲載