「ぼくの心にほかならぬこの心、それですらぼくにとっては永遠に定義不能なままだろう。」

(アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』)

1)心の消失

いま、人類は、「心」という存在を見失いつつある。そして、常時、不安と不快感とストレスを抱えている。

現下のガザやウクライナで起こっている忌まわしい戦争や不条理な分断も、遅々としてなかなか解決打開のめどが立たない気候危機問題も、そのすべての難問が未解決のままでいるのはなぜなのか。その究極の根源を突き付けてゆくと、「心の消失」という深刻な問題に行きつく。これは、実は、古くて新しい人類の永遠の課題でもある。

イギリスの作家オルダス・ハクスリー(Aldous Huxley)の描いた『すばらしい新世界(Brave New World )』のように手軽に多幸感をもたらす快楽薬ソーマが全員に配給される架空の世界でもない限り、「心の消失」や「幸福の不在」という深刻な問題は、今後も、やっかいな未解決の難問として、人類の眼前に居座り続けるであろう。

そもそも、最初に「心の消失」という深刻な問題について深く考えるようになったきっかけは、10余年以上も本郷で若い学生諸君と向き合い、彼女彼らから相談を受け、その悩みの根底にある深刻な「心の疎外」に気付いたからであった。

時に、ゼミ生が、卒論指導の折に、「先生、ちょっと好いですか?」と内々の相談があったこともあった。古屋研究室で学術論文を書いていると、ドアーをノックする学生がいて、講義を受けてくれている学生だったので、講義で話した気候変動についての質問なのかなと思ったら、「実は・・」と個人的な悩みの相談であったこともあった。学生、それぞれ、相談の内容も、悩みの深度も多様であったが、いずれも、家族にも友人にも相談できないテーマが多かった。いろいろな学生が、固有の悩みを抱えていた。

前途への蒙昧とした不安や、複雑な家庭問題、自身が抱えている自閉スペクトラム症等の内患、恋愛や友人等の人間関係等々、個々の悩みの心象風景は様々であったが、そこに通底している「心の消失」という深刻な問題に向き合ううちに、これは、原因を除去すれば解決するような単純な問題ではなく、かつ、単なる心の弱体化の問題でもないことに気付いた。

むろん、当方は、上等なアドバイスもできる器量もなく、もっぱら静かな聞き役に徹していたのだが、それでも、すべてを話し終えた学生は、サッパリした顔をして、お礼を言って、研究室を去って行った。

おそらく、明確な回答を得たかったのではなく、寄り添う人の存在が、心の触れ合いが、欲しかっただけなのかもしれない。そして、心の消失を回避したかったのかもしれない。そう思った。

これほどデリケートで、脆弱で、かつ難解な、人間の「心」って、はたして、何なんだろうか。

むろん、「心」は、喜びと愛情の源泉でもあるが、その一方で、憎しみや虚栄心、闘争心や支配欲等の邪心の孵化器でもある。実にambivalentな存在である。なかなか一筋縄ではいかいない。

思い起こせば、半世紀も前の遠い追憶にはなるが、物心ついた頃から、人間の「心」には興味があった。そして、特に、大学進学で進路を模索していた高校時代には、多くの経験と出会いを契機に、「人間」そのものに深い関心を抱くようになり、いずれは研究者になろうと思い立ち、2つのささやかな夢を抱いていた。

1つは、その人間の心の問題を探求するミクロの視座からの心理学者の世界。もう1つは、その人間が集合したマクロの視座からの社会科学としての経済学者の道であった。そして、どちらの道に進もうか考えていた。結局、総合的に勘案して、経済学の研究者を目指すことになったのだが、こうした高校時代に抱いていた人間に対する深い関心は、いまだに衰えることなく続いていて、今日に至っている。

その後、大学院で貨幣理論の研究をし、J.M.Keynesの再評価をテーマに修理論文を書きあげた。さらに、「訳知り顔」で机上論に明け暮れるアカデミアの世界に蟄居埋没するのではなく、本当の現場を知りたいと思い、東京銀行に勤務し、過去2回通算8年間にも及ぶドイツ駐在経験も経て、まさに資本主義経済のど真ん中の国際金融の最前線の現場で、経済と言う不可解で得体のしれない魔界のインサイダーとして生息し、その光と影を垣間見た。

期せずして、理論と実際の両建てを経験した。

しかも、その後、セレンディピティのご縁もあって、経済とは異次元の地球環境を研究する一介の学者として、気候変動問題に対する人間の向き合い方の研究を10余年以上にわたって行って今日に至る。

大学院で経済と通貨の本質について探求していた時代に取り組んだのは、資本主義システムの核たる「経済のダイナミズム」や「通貨の本質」と、人間の野心(animal spirit)と欲望からなる「心」との位相の問題であった。

東京銀行時代に、大企業のaccount officerとして向き合ったのも、1人1人の「心」をもった生身の人間であり、激変するグローバルな市場で格闘していた時代も、一見無機質に見えるそのマーケットの向こうにはまぎれもない悲喜こもごもの生身の人間の「心」があった。欧州担当のregional managerとして、欧州諸国の要人や外資系金融機関の人びとと向きあいながら、一見巨大で無機質に見える国際金融システムも、実は、こういった悲喜交々の日々を送っている血の通った人間の集合に過ぎないことも実感した。資本主義システムは、まさに「心」の巨大な集合体に過ぎなかったことも、その時に、体感した。

そして、その後の国際通貨研究所のエコノミスト時代も、大学教授就任後の研究生活でも、常に人間の「心」についての思索が、あたかもマラソンの伴走者のごとく、傍らにあった。

喫緊のグローバルイッシュである気候変動問題に取り組みながら、内外の学会発表や、海外調査研究出張や、COP(国連の気候変動枠組み条約締約国会議)等の国際会議への参加、さらには古屋ゼミ合宿で訪問した北欧やドイツの現場でも、現地で出会った多種多様な研究者やNPOの方々との交流を通じて多くを学び、燎原の火のごとく世界各地で拡大しつつある気候危機問題解決に向けた世界的潮流の根底にある地球市民としての1人1人の血の通った人間の暖かい「心」の存在を実感し、そこにささやかな「可能性」と「希望」も感じた。

画期的な歴史的快挙と言われている「パリ協定」も「SDGs」も、ある日突然天から舞い降りた来たものではなく、同じ気候変動問題に地道に取り組んできた世界中の研究者や政策担当者たちの頼もしい同志諸氏の「心」のなせる偉業であったことを、つくづく実感している。

とりわけ、地球環境学者になって、気候変動問題の「最適解」の研究に本格的に取り組み始める中で、その根本問題の根源が、人間の「心」にあることに気付けたことは大きかった。

かつて、かのアダム・スミス(Adam Smith)は、その著『道徳情操論(The Theory of Moral Sentiments)』において、本来,人間に備わった資質として「共感性」や「倫理」の重要性を説き、「共感性」や「利他性」が、人間のみが持つ特異な感情であり、これによって集団行動を取ることで身体的な劣位を補って人類は今日の繁栄を獲得するに至ったことを洞察している。同時に、人間の欲望の充足度は、右肩上がりの無限数直線ではなく、ある程度の水準で一定の「上限(cap)」があることも喝破している。そもそも、気候危機を含めた地球環境問題に通底している根本原因は、人類の「業」とも言うべき、無限の欲望に動機付けされた無限に増殖しようとする通貨を軸とした資本主義システムに内包している「増殖性」にあるが、その「増殖性」を稼働させている欲望自体に、実は「上限(cap)」があるのだというアダム・スミスの鋭い洞察の持つ含意は極めて重要である。これすなわち、気候変動問題の「解」のヒントは、人間の欲望に「上限(cap)」があり、人はみな「共感性」や「利他性」を持っていることにある。換言すれば、気候変動問題の「解」は、いみじくも人間の「心」にあることを意味している。人間は、まんざらでもないなぁと思う。

2)人間の心って何だろう

かくして、地球環境学者の今日に至るまで、こうしたささやかな60余年の半生の中で、いつも通奏低音のように一貫している通底してきたテーマが、「人間とは何か」「心とは何か」であった。

その意味で、高校時代に抱いた2つの人生の夢は、幸運なことに、経済の現場での実務者として、そして、貨幣論と地球環境論の一介の研究者として、「人間」そのものに常に関わってきた道程を経ながら、結果的に両方充足できたとも思っている。

そして、大学教授定年退官後も、さらに自由な立場から「人間とは何か」について縦横無尽に思索探求をしている今日このごろである。

むろん、この「人間の心って何だろう」という難解な問いには何ら答えを見いだせないままである。

そうした中で、いま、鎌倉図書館から借りてきた、下西風燈の『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』と、外山滋比古の『自然知能』を、まさに20代の学生時代の気分で、夢中になって読んでいる。

まさに、かような人生をたどりながら通奏低音のように一貫して抱いてきた「人間の心って何だろう」という難解な問いに対する考えるヒント満載で、実に面白い。

「心」は、今からおよそ2500年前の古代ギリシアでソクラテスやプラトン等の哲学者たちによって発明されたと、下西風燈は解説している。

いま、その「心」が、危機に面している。

資本主義は、地球環境からの収奪に飽き足らず、こともあろうか、インターネットとAIという最新兵器で武装しながら、最後の残された聖域である「心」や「精神」までも、profit frontierとしてロックオンし、資本の対象として残酷かつ非道に収奪を始めている。いままで無防備ながらも平穏であったはずの我々の「心」や「精神」の世界にまで土足で入り込み、当方の合意も得ずに、一方的に、脈絡なく、勝手につなぎ、勝手に介入してきている。

どんどん、人々の穏やかな幸福感が侵食されって来ている気がしてならない。どんどん、人々が真の幸福から遠ざかってきてしまっている気がしてならない。人間は、儚く、弱く、愚かなのであろうか。

不幸なことに、それに無自覚に「心」が席巻され占領されている人々も結構多い事態は、深刻である。

常々、東京都内でもよく散見される光景なので気になっているのだが、電車に乗って、7人席に座っている乗客が、全員、判で押したように、一様に、聖徳太子のごとく、片手にスマートフォンをもって、生気のない不機嫌な顔で携帯画面を凝視している悍ましい風景は、もはや、シュールで病的ですらある。

その結果だろうか、20世紀にさらに深刻化してきた精神疾患は、むしろ癌よりも公衆衛生予算がかさむ時代になってしまっていると言われている。

そして、今、ChatGPTに象徴される生成AI(Artificial Intelligence;以下AIと略)が登場し、さらには人工生命(Artificial Life;以下ALIFEと略)も俎上に上がってきて、「心」の問題が、さらに、新たな次元で様々な視点から議論され始めている。

GPTのベースとなるTransformerをはじめ、ニューラルネットワークは人間の脳の神経細胞をモデルとしているが、現実の神経細胞ネットワークと比べるときわめて単純化されたモデルでしかない。

確率モデルで動くChatGPTは、最初は物珍しかったが、基本的には、当然ながら、ごくごく無難で平均的な答えを返すためか、個人的には、なんとなく、浅薄で不味な感じがしている。

元来、人間を含めた生命の本質は「自律性」にある。生命はなんらかの入力があったからそれに応答して出力を返しているのではなく、常になんらかの運動・行為を自発的かつ能動的に継起させながら勝手に動いている。外部からのなんらかの入力に対してなんらかの出力を返すAIとは異なり、生命の基本的な特徴は、その「自律性」にある。その観点からは、人間がなんらかの入力を与えなくても勝手に動き続ける自律的なALIFEは、管理不可能なエージェントとして、その進化の動向には慎重な注視が必要であろう。

人間の面白いところは、「他者性」にある。お互いが100%は分かり合えない点にある。コントロールが不可能で、完全な沈黙も抑止も不可能で、自分の「意に沿わない」余計なことを言ったりする。これ自体は、やっかいなではあるが、むしろ面白い点でもある。人間が人間らしい由縁である。夫婦でも恋人同士でも、すべてお見通しなら、つまらないであろう。この「他者性」があるからこそ、様々なドラマや小説も誕生するのである。

この「他者性」は、AIにはないが、しかし、専門家によると、ALIFEは、やがて「他者性」を持つようになるであろうと言われている。コントロールが不可能な自律的なALIFEが進化した先の世界の風景は、どうなっているんだろうか。あな恐ろしや。この蒙昧とした不安が杞憂であればいいのだが。

はたして、こうしたAIやALIFEと「心」の関係性の未来は、これからどうなってゆくのであろうか。

下西風燈は、こうした現代的な「心」や「精神」の危機を念頭に、この本を通じて、心の在り方を問うべく、「人間は、たかだか200年前に発明されたにすぎない。」というフーコーの思想、「心は、巨大な鑑である。」とするローティの仮説、「人口知能は、紀元前450年ころ古代ギリシアに始まった。」とするドレイファスのレトリック等、さらには、夏目漱石の『草枕』から『行人』まで考察の舞台を展開し、続々とドキッとするような面白い変化球を投げかけてくる。この豊穣な知的刺激に、退屈する隙を与えてくれない。彼は、人間の心ははじめから弱く脆かったのではない、人は、それをどこかで失ったのであると言っている。実に面白い稀有な哲学書である。

外山滋比古は、学生時代からの愛読書『知的創造のヒント』や『思考の整理学』等の著者として長年親しんできた学者であったが、晩年、生まれながらにして持っている知能を「自然知能」と定義した。そして、本書では、「自然知能は、名もなく放置されてきたのである。そのため人間は進化がおくれた。そういうことを考える人もなかった。人工知能があらわれてようやく、自然知能が存在しなくてはいけない、ということがわかるようになった。」「自然知能は生まれて数年間が最大の力を持ち、3,4歳から衰えていく。10で天才、15で才子、20過ぎればただの人。」と喝破する。人間の学習能力のかけがえのなさ、特に乳幼児期の体験の重要性を強調している。

むろん、この2冊の本から正解を得ようなんて虫の良いことは考えてもいないが、つくづく、人間の心って面白うなぁと思う。

一介の市井の地球環境学者として、これからも、気候危機等の地球環境問題の重要な鍵ともなる「心」の問題について、じっくり探求してゆきたいと思っている。

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