ここに1枚の絵がある。あのゴヤ(Francisco José de Goya) が描いた「棍棒での決闘(Riña a garrotazos)」である。大昔、学生時代、欧州旅行の途上、スペインのマドリッドのプラド美術館で観た時の衝撃を、半世紀近くたった今でも思い出す。


現下のウクライナ戦争を見ていると、このゴヤの絵を思い出す。

⼆⼈の敵対者が、棍棒を振り回し、ずるずる崩れ落ちる砂地のど真ん中で争っている絵である。やがて、⼆⼈は⽳に引き摺り込まれ、そのうちに⼆⼈ともすっかり飲み込まれてしまう。戦いが⽩熱し、攻撃が激しく⾮常になればなるほど、彼らの埋没の速度も早くなる。⼆⼈の決闘者は⾃分が淵に落ち込んでいるとは夢にも思っていないし、自分が置かれている状況が理解できたいない。なんとも愚かな風景である。

でも、実は、人類史は、なんとも情けないことに、この愚行の繰り返しである。

この「棍棒での決闘」のアナロジーは、単に「⼈間」同士の戦争へのアイロニーとしてだけではなく、「⼈間」と「⾃然」という単純な⼆項対⽴的なものとして捉えることもできよう。しかし、こうした⼆項対⽴的な認識に対し警鐘を鳴らしたのが、フランスの思想家ミシェル・セール(Michel Serres)であった。

彼が、いまから16年前「地球との和解」というUNESCOのシンポジウムで発した、以下の言葉がある。
 「人類に切り刻まれた自然は、いま沈黙の内に再結集し、人類に報復しようとしている。」

現下の気候危機やコロナ禍は、まさに、その証左であろう。そもそも、「⼈間」は、「⾃然」に対する対等な⼆項対⽴的存在ではなく、その広大な生態系に帰属しているたった生命体の1種にすぎない。人類は、傲慢不遜であってはなるまい。

周知の通り、科学革命による近代文明は、西欧に起こったが、瞬く間に世界中に拡散伝播し、世界文明となった。そして、人類は、やがて20世紀という忌まわしき「戦争の世紀」に突入した。戦争と地球環境破壊を繰り返しながら、その「繁栄という虚構」に浮かれて、わが世を謳歌してきた。

こうした中で、科学と人間の価値において、決定的かつ致命的な変化が起こった。

科学においては、「Value free」という、倫理的判断との棲み分けの姿勢を踏襲するようになった。その倫理的判断から乖離したことの結果、忌まわしい多くの不幸の元凶たる毒ガス、枯葉剤、原爆といった大量破壊兵器の発明がこの姿勢に由来して、続々と誕生した。

そして、同時に、人間の価値においては、その重心が「存在」から「所有」にシフトした。「所有」、すなわち「持つ」とは、自己の外にあるものを自己のものにすることであり、そこには排他性と言う緊張感が付随し、お金を持つ、土地を持つ、権力を持つ、すべて自己の外のものを自己のものにするという利己的な価値観に依拠することを意味した。やがて、人間は、その「人格」ではなくその持ち物の「貴賤」によって評価されるようになる。人類の所有の欲望には際限がない。持つものには更なる所有の欲望が生まれる。その果てしない無限装置にも似た欲望によって、資本主義経済が急激に異状膨張し、その最たるものが、覇権主義と植民地主義という「怪物」となって、世界中で猛威を振るった。

現下の理解しがたいロシアによる一方的なウクライナ侵略戦争は、その断末魔的な証左であろう。

「所有が増えるほど存在は減少する」という箴言は、正鵠を射ている。「存在」と「所有」は反比例の関係にある。そして、所有が増えるほど、人心は荒廃し、人々の精神は砂漠化した。その虚無的な精神を埋めるものが、さらなる所有であった。あたかも、麻薬中毒者にも似た、このマイナス・スパイラルの渦に巻き込まれた人類は、性懲りもなく、市場原理主義による極大の所有を求める姿勢をいまだに変えずに、今日に至っている。そして、その忌まわしい負の派生として、地球環境が破壊・汚染され、気候危機が加速度的に深刻度を増し、人類が刹那的に消費や所有で得たであろう快楽の何百倍もの苦痛やコストとして、人類に襲い掛かってきている。

「極大を求めるものは極小のものによる復讐を受ける。」という箴言は、正鵠を射ている。

科学の「Value free」という棲み分けと「所有」という価値観の台頭が、人類に、戦争や疎外、格差、気候危機等のあまたの不幸をもたらしたことはfactである。こうした人類が直面している多くの困難と不幸の根本原因が、実は、この科学の「Value free」という棲み分けと、「所有」という価値観の台頭にあるのではないか。

もう、そろそろ、人類は、自己の愚かさを、冷静になって省察し、自らが演じてきた、この恥ずかしくも愚かな「棍棒での決闘」の不毛さを悟り、科学の「Value free」という棲み分けと「所有」という価値観からの卒業をすべき時期に来ているのではないか。

人類は、いまこそ、生成する自然の主人でも所有者でもないことを自覚し、その「宇宙船地球号」のささやかな一員であることを謙虚に再認識し、不毛な「棍棒での決闘」の戦線から離脱し、「所有の文明」から、人間本来の「存在の文明」へと抜本的なグレート・リセットを行う最後の機会を与えられているのではないかと思っている。