いま、嫌な予感がする。危険な「戦前」の空気が立ち込めているのだ。

愚かな歴史は、また、性懲りもなく、繰り返すのであろうか。
危険な香りのたちこめたデジャビュ感が半端ない。

テロから、戦争に続く、いつか来た道を、いま、日本は、醜悪にも、また歩もうとしているのか。

いまや、尋常ならざる国債累積と国会の監視がきかない財源による防衛費増加は歯止めを失いつつあり、あたかも、先の戦争の「戦前」と酷似している。嫌な予感がする。

昨年2022年暮れのテレビ番組「徹子の部屋」にゲスト出演した終戦の年に生まれたタモリさんの発言が物議をかもした。彼は会話の中で、司会の黒柳徹子さんに「来年はどんな年になるでしょう」と聞かれると、「新しい戦前になるんじゃないでしょうか」と答えた。この簡潔な言葉は、今の時代の空気感を見事に的確に表現していた。

周知の通り、いまから87年前の昭和11年に「2.26事件」のテロルが起きた。不穏な空気の中、翌年昭和12年には、臨時軍事費特別会計によって国債で膨大な日中戦争の軍事費調達が可能となった。その後一度も決算をしていない。総括も検証もされない予算であった。そして、第二次世界大戦後のハイパーインフレーションで膨大な国債債務は帳消しとなった。この実に姑息で巧妙はシナリオが、後の戦争の導火線になった。その後の対戦のおぞましき序章とも言うべき悪手の軍事費創出の錬金術であった。

今、当時と同じ不穏で不健全な空気が永田町を覆っている。実に嫌な予感がする。

首相を狙うテロルが起き、尋常ではない軍事費急増とそれを担保する病的な国債累積増加、方や、日銀の機能不全、景気低迷と人心の荒廃、国会のチェックを経ない杜撰な特別会計と基金の乱用による財政運営、閣議決定と言う欺瞞ですべてを決めてしまう政権の暴走、それを止めれない野党の無能さと無気力。軍事産業化にまい進する日本のメーカーや死の商人然たる商社の暗躍。権力に対して果敢に監視し厳しい批判と糾弾をすべき立場にあるはずのジャーナリズムの質の低下と機能不全。その向こうからヒタヒタと聞こえてくる不気味な軍靴の音。

はたして、日本は、本当に、このまま、悪しき歴史を繰り返していいのだろうか。先の戦争から、日本は、何も学んでこなかったのだろうか。

こうして、誰も気が付かないまま、再び、こっそり静かに「新しい戦前」は、始まって行く。確信犯である政策立案当事者を除けば、その不気味な不可逆的な戦争準備の胎動に気付く国民は少ない。そして、国民全体が、その危険に気が付いた時は、もう遅い。来たる戦争が、多くの無辜の市民の命を奪い、家庭の団欒を破壊し、その結果、この美しい日本が、まったく「ロクデモナイ」惨状に帰結することは、歴史の教訓から自明であるにも関わらず。誰1人幸福にしないにも関わらず。
戦争を起こす時は、たいてい、自国経済が万事休すの時であることが多いことは、歴史が証明している。そして、「窮鼠猫を噛む」ではないが、戦争と言う有効需要政策という奇策に安易に手を伸ばす。軍事産業に参画する企業は、軍事予算さえ確保できれば、後は「濡れ手に粟」であり、膨大な軍事装備売上と継続的な維持ビジネスが転がり込んでくる。
その際、為政者は、必ず、姑息にも、「防衛」という詭弁でもって、自己正当化を図り、「自分は悪くないが、いたしかたなく戦争を準備せざるを得ない」という正義を繕う。おぞましき偽善である。そして、これも、多くの歴史が証明していることであるが、威勢よく戦争準備なり参戦なりを煽り、意思決定する責任者の太宗は、自分自身は、戦場の最前線に立つ気は毛頭ない。
はたして、為政者は、自分のかけがえのない子供たちを最前線に立たせる覚悟で法案を立案し賛成票を投じているのであろうか。最前線の緊張感のリアリティーが欠落したまま、当事者意識不在なまま、方や、自分の安全は担保しつつ。国民の尊い命を費消する残虐な決定を平気でするのであろうか。であれば、実に、姑息かつ卑劣である。

いまの日本の空気感もそれに酷似している。自国経済が万事休すになった原因は、政治と企業経営者の見識の欠落と判断能力不足に伴う不作為の罪に拠るところが多い。その重い責任に謙虚に向きあわず、その責任すらとらずに、戦争という特需で問題解決を図るのは、まったくもって言語道断である。その姑息な責任転嫁の「とばっちり」で火器を手に戦場に行かされるわが国の青年諸氏はたまったものじゃない。為政者は、「憂国の仮面」をかぶり「台湾有事」「北朝鮮ミサイル」「ウクライナ戦争」等の外部事情を言い訳に、嬉々として自国の戦争準備を雄弁に正当化する。所謂「ショック・ドクトリン」である。

確かに、国際情勢が不穏なことは事実である。ロシアのウクライナ侵攻、米中緊張の加速激化、台湾への中国の圧力などの国際環境だけでなく、わが国も、北朝鮮からの頻回のミサイル発射、中国の頻回の領海侵犯などに対し、常に緊張感を強いられている。先日5月11日には、米国主導のNATOが中露敵視策の一環として東京に事務所を開く計画が発表された。しかし、だからと言って、この機に便乗して、法外かつ無節操な軍事費膨張を正当化するものでもなかろう。それを「火事場泥棒」と呼ぶ。

本当に、自分の判断の正当性に自身があるのなら、閣議決定で強行突破という姑息な奇襲作戦ではなく、正々堂々と、国会で、衆人環視に下で、客観的科学的資料をもって誠意をもって説明し、大いに喧々諤々の議論し、しっかり熟議を経て、国民の意見に謙虚に耳を傾けてから、決めればいいのである。国民の命がかかっているのだから、当然だ。本来、国会とは、そういうものだろう。なぜ、そんな当たり前のことができないのか、不思議でならない。それとも、誰にも言えない腹黒い事情でもあるのか、はたまた、自信がないのか、あるいは、はなから国民をなめているのか。どうなんだろうか。

ちなみに、これほどいい加減な話もないと思うが、いまの防衛財源43兆円の内訳をみて驚く。手当て済みでない17兆円の調達の内、増税4.4兆円の他、決済剰余金3.5兆円、歳出改革3兆円、防衛力強化金4.6兆円である。なんと、防衛力強化金の内のほとんど3.1兆円は、防衛と関係ない外為特金である。こうした意味不明な「流用」がまかり通っている。予算制度の理念も何もあったもんじゃない。すでに、健全な財政規律は破綻してしまっているのである。

では、はたして、「窮鼠猫を噛む」の窮鼠日本の実情はどうなんだろうか。すでに周知のことも多いが、相当深刻な事情であることは確かである。産業は衰退。「一本足打法」で、いままでなんとか日本の輸出を牽引してきたトヨタのEV戦略の失敗に象徴されるように、経営者の大局観と判断力の欠如が、多くの機会を見逃して、敗者に成り下がっている始末。いまや、テスラや比亜迪汽車(BYD)から周回遅れの体たらくで、もはや、世界のEV市場でのキャッチアップは困難な状態であるとの厳しい批判もある。一時は、バッテリーで世界最高水準にあったパナソニックですら、トヨタの判断遅延に引きずられて商機を中国に奪われ、低迷困窮している。

日本全体の潜在成長率も低下。貿易赤字が膨張傾向にある。やがて、遅かれ早かれ、国際収支赤字に突入すると、事態はさらに深刻になる。労働生産性は、先進諸国内でも低位に推移しており、実質賃金は依然として継続的低下傾向に改善の階は見えない。貧困と格差は悪化の一途である。若者の太宗は、日本の未来に希望が見えないと、結婚や出産に二の足を踏んでいる。人口減少に拍車がかかり、必然的に、国内市場は縮小し、社会保障制度は破綻する危険が日増しに増加している。輸入物価上昇によるインフレと、景況感の悪化というデフレが共存するスタグフレーションにまったく改善の目途がたっていない。
新任の植田新日銀総裁のお手並み拝見ではあるが、依然と黒田時代の金融緩和のイナーシャの中におり、大量の国債を抱えて金融政策が機能不全に陥っている中で、日銀自体の破綻懸念すら出ている。円安、海外投機家筋による国債売り浴びせのリスク、金利上昇懸念、中小企業の倒産急増リスク、イールドカーブ・コントロール(Yield Curve Control;YCCと略) の破綻リスクの上昇等々、懸念点を挙げたらきりがない。

いまの、日本、好いことがまったくないのである。自虐的でも謙譲でもなく、これはfactである。現実から目を背けてはなるまい。ましてや、その場しのぎの戦争準備に視点を逸らすことは言語同断である。

けだし、悲観していても埒があかない。やるべきことは、山ほどある。いまからでも遅くはない。

軍事費の抜本的見直しと潔い削減判断。削減した軍事費の余裕部分の思い切った教育・少子化対策への本気の注入。植田新日銀総裁による日銀金融政策の毅然とした忖度なしの総括と徹底的反省。大量の国債を抱えて金融政策が機能不全に陥っている窮状からの卒業。発送電分離の貫徹をはじめとする抜本的な電力・エネルギー改革と真の「脱炭素国家」に向けた再生可能エネルギーを軸としたエネルギーシフトの加速。EV化の加速と数値目標の引き上げ。本格的な炭素税等のカーボン・プライシングの導入。食料とエネルギーの自給率向上政策の断行。徹底したデジタル化の推進。等々。
いずれも、不可能な項目は1つもない。やればできることばかりである。すべて、その実現に必要な技術も人材も十分揃っている。すべて、できる。やるしかないのである。

明らかなことが1つある。

それは、今生きている日本人がほぼ誰も経験したことのない「新しい戦前」が、望むと望まないに関わらず、すでにもうやって来ているという事実である。

このまま不作為のまま傍観していては、また同じ道をたどることになる。それが、結局、日本国民誰1人も幸せにしなかったことは、歴史から学習すべきだ。

いずれにしても、このまま、悪しき歴史を繰り返さないためにも、昔来た破滅への道を2度と歩まぬためにも、いまこそ、日本は、そして、日本国民は、踏ん張りどころの正念場にいるのである。

さあ、どうする!日本!!
さあ、どうする!日本国民!!