(6)炭素通貨(Carbon Money) ~地球環境本位制に基づく世界共通通貨の誕生~

1)幻の世界共通通貨「バンコール」の復活の含意

それでは、新たな健康な通貨とは何か?そのための新しい造血幹細胞は何なのか。新しいプラットフォームは何なのか。はたして、新しい国際通貨システム構築と気候危機問題解決のための脱炭素社会構築の両方に貢献できる「新しい通貨」とは何なのか。

ここに、ヒントがある。かつて世界の檜舞台から姿を消した幻の世界共通通貨「バンコール」である。あの「バンコール」を、地球環境の視座から、もう一度、地球環境本位制に基づく世界共通通貨として再定義して、復活させようという試論である。この「バンコール」という容器に、従来「外部化」して無視してきた地球環境要素を充填することで「内部化」し、地球環境本位制に基づく新たな世界共通通貨を創造するのである。

いまや、喫緊の課題は、宗教の力に依存せずに、人類の英知を結集させて、いかにして、現下の人類社会システムの自己増殖を抑止できる仕組みを構築するかにある。そのためには、現在米ドルを基軸通貨としている国際通貨体制を可及的速やかに終えて、一国の覇権国家の通貨を基軸通貨とする手法を放棄し、新たな世界共通通貨に代えて「通貨」の内発的な「自己増殖性」を、地球環境の有限性をキャップ(上限)として公平性と透明性を前提に科学的にコントロールする新しいシステムへのパラダイムシフトが必須不可欠である。そこで登場する鍵が、「新たなバンコール」である。それは、金でなく、地球環境にリンクさせる。「金本位制」でなく「地球環境本位制」である。地球環境は、有限であり、人類の無限の欲望にタガをはめ、その増殖性を抑止するアンカーとしての役割を果たす。地球環境にリンクした新たなバンコールは、単に世界共通通貨としての国際通貨システム自体の改善という文脈だけでなく、人類の性懲りもなく増殖拡大しようとする欲望に制約をかけることで、気候危機問題への抜本的な解として極めて重要である。


2)地球環境に本位した「炭素通貨」の必然性

我々の人間社会に「環境」を内部化させるため最も有効で簡単な手段は、環境負荷を誰しもが共通に認識できる情報にすることである。その具体化の手段は多様であるが、その中でも、注目すべき画期的な方法として、地球環境本位制に基づく新たなバンコールとも呼ぶべき「炭素通貨(Carbon Money)」がある[1]

「炭素通貨」は、経済システムにおける血液の役割を果たしている通貨に、最も典型的な地球環境ファクターである「温室効果ガス排出権」を内部化させて、人類の経済行動の中に、有限で脆弱な地球環境に対する配慮行動を喚起する仕掛けを内包した通貨である。従来外部的存在として捨象してきた地球環境ファクターを経済システムの中に「内部化」させる重要な役割を果たす。まさに金本位制に代わる地球環境本位制の意義がそこにある。

地球環境に本位した「炭素通貨」は、決して最新の概念ではない。端緒は、英国にある。英国では、既にいまから15年前の2008 年 2 月に、当時のブラウン首相が「炭素銀行」構想を発表している。環境当局やオックスフォード大学等関係研究機関を中心に「炭素通貨」の研究が始まっており、「炭素通貨」の実用化研究として、既に、IC カードを使って家計部門に温室効果ガス排出権を割り当てる「個人向カーボン・クレジット・カード(Personal carbon credit card)」実用化の pre-feasibility study も始まっている[2]

「炭素通貨」は、すでに現に世界中の排出権市場で取引されている温室効果ガス排出権を「通貨」として応用している。この温室効果ガス排出権取引(Emissions Trading)制度とは、全体の温室効果ガス排出量にキャップ(上限)をかけ、その中で、排出枠を取引することを許すことによって、最も費用効果的な排出削減の達成を可能にする制度である[3]。本論では、欧州連合(EU)の排出量取引制度等でも採用されている排出量取引制度の最も一般的な形式である「キャップ・アンド・トレード・システム(cap and trading system)」を前提に議論する[4]


[1]「炭素通貨」構想の発祥地は、英国である。(出所)古屋力(2009)「英国の炭素通貨構想-地球環境に優しい未来志向的な通貨システムについての一考察-」、-(2011)「炭素通貨論:持続可能な低炭素社会における新しい国際通貨システムの展望(Carbon Money:An Inquiry for the New International Monetary System in the Sustainable Low Carbon Society)」(大阪市立大学経済学会經濟學雜誌)、-(2011)「炭素通貨―持続可能な低炭素社会構築のための金融面からのアプローチ」(環境統合経済―CEIS40周年記念特集号)、-(2011)「国際金融秩序の展望」(『国際政治経済を学ぶ』ミネルヴァ書房)等。https://www.iima.or.jp/docs/newsletter/2009/NLNo_19_j.pdf

[2] 英国は、2008 年気候変動法によって、温室効果ガス(GHG)削減目標を世界で初めて法制化した。同法は、2050 年までに GHG 排出量を 1990 年比 80%削減する目標やカーボンバジェットの設定、気候変動委員会(Climate Change Committee: CCC)設立等を定めている。カーボンバジェットとは排出量の上限であり、政府は 2008 年から 2050 年までの間、12 年先まで 5 年間ごとのカーボンバジェットを設定するとされている。

[3] 排出権取引は、英国で2002年4月に世界初の国内取引市場ができて以来、2005年1月からEUが開始し、いまや世界中で取引がされている。この制度では、自分の排出枠を、実際の排出量が上回った場合、基本的に自力で削減するか、排出枠を他所から買ってくるかの2択がある。国際復興開発銀行(世界銀行)によれば、導入国はすでに約40カ国にのぼっている。欧州連合(EU)の排出枠には、様々なオプションも用意され、排出権取引の排出枠は、価格上昇を見込んだヘッジファンドの取引なども行われており、金融商品としての可能性が高まっている。

[4] 削減目標を達成するために温室効果ガス排出量にキャップ(限度)を設け、その枠内に収まるようにトレード(取引)することから、「キャップ・アンド・トレード・システム(cap and trading system)」と呼ばれている。

3)「炭素通貨」の具体的なイメージ

「炭素通貨」構想の特徴とその効用を、分かりやすくイメージして理解しやすくするための一助に、以下、具体例で補足説明しておきたい。


(炭素通貨の具体的なイメージ)(注)

世界炭素銀行は、「パリ協定」の目標設定を念頭に、人類に許容されているその年の1年分の世界全体の年間温室効果ガス排出許容割当量(Carbon budget)を定め、その中の家計部門割当量を全世界の人類全員に一律等量で公平按分し、その1人あたり年間排出許容量をチャージしたカーボン・カード(Global Personal Carbon Credit Card)を、期間開始前に、全人類に、公平に一律無償配布する。

カーボン・カードを受領した人々は、愛車にガソリンを入れる際等の日常的な消費行動の際に、ガソリン代金等の支払い等の決済と共に、カーボン・カードによって相当量の温室効果ガスをカーボン決済することが義務付けられている。あらかじめ、商品ごとに、その商品の生産に要した温室効果ガス値が、設定されており、決済時に初品ごとに自動的にカーボン決済額が請求される仕組みができている。

個々のカーボン決済の都度、個人の炭素勘定(Carbon Account)から、使用分が引き落とされる。個人炭素勘定から引き落とされたカーボンは、瞬時に世界炭素銀行の償却勘定に同額のカーボン消費として反映される。世界炭素銀行の炭素元帳には瞬時に世界全体でその日に使用された何十億件というカーボン決済の全取引データが集計され、世界炭素銀行は、毎日世界全体でどの程度カーボンを使用しているか正確に把握でき、現段階で世界中の家計部門の温室効果ガス消費の進捗やその増加スピードを正確に観察できる。

仮にB氏が、排気量が大きい高級スポーツカー(ガソリン車)に乗っていたと仮定しよう。ガソリン消費が著しいため、B氏の炭素勘定残高は8月末で底をつく。残された9月から12月まで4カ月分、自腹でこの不足分をチャージしなければ、車を運転できない。仮に、チャージ総額が40万円相当だとする。B氏は、それを一種の気候危機に加担したペナルティーとして認識し、耐えがたいマイナス・インセンティブと感じ、即座に高級スポーツカーを売却し、電気自動車に切り替えるかもしれない。一方、自動車を保有せずいつも自転車通勤しているCさんがいたとしよう。Cさんの炭素勘定は12月末になっても当初の残高のまま未使用である。翌年1月末に、Cさん個人の銀行口座には残ったカーボン残高相当の現金が振り込まれる。仮に30万円相当だったとする。それはCさんが環境に優しい生活をしてきたことに対するご褒美である。彼女は、これを、プラス・インセンティブと感じ、これを契機に、来年計画していた高級スポーツカー購入を取りやめるかもしれない。ここで注目すべき点は、Cさんに振り込まれた30万円相当の資金はB氏が支払った40万円相当の資金で十分手当てされ、単にB氏からCさんに所得移転が生じるだけで、世界炭素銀行は1円の財政負担もないという点である。

やがて、対象が、ガソリンだけでなく、電気・ガス、珈琲等の一般消費財や、映画、ホテル等のサービスに拡大すれば、あらゆる経済行動がカバーされ、最終的に、世界炭素銀行は、商品・サービス別の温室効果ガス消費行動を正確かつ一目瞭然に把握することができるようになる。

こうしたカーボン決済が、毎日、世界中で行われる。化石燃料依存が高く温室効果ガス排出量が多く地球環境負荷の高い人々が多く住む国では、国家全体のカーボンへのチャージ総額が膨大な額になり、受領できるご褒美としての還元額を超過し赤字国となる。方や、化石燃料依存が低く温室効果ガス排出量が少ない地球環境負荷の低い人々が多く住む国では、国家全体のカーボンへのチャージ総額より受領できるご褒美としての還元額が超過し黒字国となる。

その結果、1当たりの温室効果ガス排出の多い先進諸国等では年間の累積赤字額は膨大なものになり、一方、1当たりの温室効果ガス排出の少ないグローバルサウス諸国等では年間の累積黒字額は膨大なものになる。それは、事実上の、先進諸国からグローバルサウスへの資金移動・所得移転を意味する。その資金移動の規模は、既存の政府開発援助(Official Development Assistance:ODA)をはるかに凌駕するであろうと推察される。

世界炭素銀行は、こうした世界中の人々の炭素消費行動を常時モニタリングし、世界全体でどの程度温室効果ガスを排出しているか、その増加速度が適正スピードに比べ速いか否かも正確に把握でき、温室効果ガス排出の多い商品の炭素換算レートを高めに調整することで、高炭素消費を抑制することもできる。

4)「炭素通貨」の意義

「炭素通貨」は、以下の2つの重要な存在意義をもっている。


(1)「世界共通通貨」としての意義 「情報の非対称性や不完全性問題からの解放~


1つは、国家を超越した新次元の「世界共通通貨(Global Common Currency)」としての意義である。ケインズの「バンコール」の「炭素」版と言えよう。世界中の諸国民が、国家や言語、宗教の呪縛から解放され、「地球人」として、対等公平に使える通貨であることによって、国家間や人類間の「情報の非対称性や不完全性」からも解放される。同時に、世界共通通貨であることによって、従来型の覇権国家の基軸通貨による様々な国際通貨問題のジレンマからも解放され、国際通貨問題等を含めた様々な資本主義システムの問題の解決への貢献も期待できる。


(2)「地球環境通貨」としての意義 ~「外部性」問題からの解放~


もう1つの意義は、地球環境に本位した「地球環境通貨」としての意義である。人間の社会システムに地球環境要素を「内部化」することによって、「外部性」問題から解放され、気候変動問題解決に貢献できる点にある。有限な地球環境と紐付けることで、無限増殖を続けようとする人類の果てしなき欲望に制約をかける仕組みである。つまり、現下の資本主義システムを「環境化(environmentalization)」することにより、人類の経済行動の中に有限で脆弱な地球環境に対する配慮が生まれ、それが短期的で急激な成長拡大を制動し、行き過ぎた過剰投資・過剰消費・過剰廃棄行動を押さえるペースメーカーとなり、人類にとってもっと健全でゆっくりと穏やで持続可能な生活風景をもたらし、気候危機問題等を含めた現下の様々な地球環境問題の解決への貢献も期待できる。

経済主体の行動が他の経済主体の効用や利潤にマイナスの影響を与え、その影響を及ぼす主体がその応分の対価を払わなかったとき、負の外部性(externality)が生じる。これを、「外部不経済(external diseconomies)」と呼ぶ。そして、有限な資源が集まっている共有地の利用が制限されないとき、追加的な経済活動の拡大増加が負の外部性をもたらす問題を「共有地の悲劇(Common source problem)」と呼ぶ。

世界最大の「共有地(Common source)」は地球環境であり、この「共有地の悲劇」のもっとも深刻か広範におよぶケースが、気候変動問題である。まさに気候変動問題は、「共有地の悲劇」の中でも最も深刻な悲劇なのである。この「共有地の悲劇」を解決するためには、今後、従来外部的存在として捨象してきた地球環境ファクターを現下の経済システムの中に環境化させることが、必要不可欠な要件となる。

いかにして人類の貪欲な価値観や行動様式を見直し、一定の定常状態が維持される循環型の仕組みをつくるかが、最重要課題となる。理念的には理解できても、抽象的で漠然としており、また内部化すべき「地球環境」と言っても、何が最適な変数のか、具体性に欠ける。また「環境要素を内部化した環境通貨」といっても、ピンとこない。

一方で、貨幣の要件は、「量が安定していて価値変動が激しく不安定でない財」で、かつ「世界中の誰もがその価値を認め、世界中の誰もが簡単に共通の尺度で認識でき、安心して交換できる財」であることが最低条件で、そして「極力運送コストがゼロ」に近いものが望ましい。換言するならば、昨今の電子マネーの興隆にも鑑み、瞬時に移転できうる「デジタル記号化できる財」が望ましい。それでは、はたして、そのような要件をすべて満たす「地球環境通貨」が、実際にあるのだろうか? 

実は、それが「カーボン」つまり「炭素通貨」なのである。CO2はリオデジャネイロでもNYでもパリでも同じCO2であり、しかも、ありがたいことに、すでに現に排出量取引市場で取引されている温室効果ガス排出量は、一種のデジタル信号となっている[5]。移転費用はゼロである。「カーボン」を「国際通貨」として検討する理由がここにある。

炭素通貨は、国家を超越する。なぜなら、カーボン(二酸化炭素)等の温室効果ガスは国境を越えて世界中に存在するからである。炭素通貨は、世界中の人々が、国家と言う枠組みを超えて、直接結びつくグローバルネットワークのキーエレメントとして、従来の国家を前提としてきた人類経済のパラダイムを、地球市民を前提としたグローバルパラダイムに転換する重要な革新性を持っている。そのグローバルな属性に鑑み、国際通貨であること、すなわち、「グローバルな炭素通貨(global carbon money)」であることが求められる。まさに、「炭素通貨」を「新たなバンコール」と呼ぶ由縁はここにある。

人類の経済活動において長らく君臨してきた通貨も、国家や地域が発行する従来型の法定通貨の枠を超越し、世界中の人々が、1人の「地球人」として、地球市民として、公平に保有する世界共通通貨として炭素通貨が登場する素地ができつつある。

国際通貨の要件は、世界中の誰もがその価値を認め、世界中の誰もが簡単に共通の尺度で認識でき、安心して交換できること、全体の発行量と価値変動が安定していることである。そして、極力運送コストがゼロに近いものが望ましい。

昨今の電子マネーの興隆にも鑑み、瞬時に移転できうるデジタル記号化できる財が望ましい。このカーボンこそが、そのような要件を満たす通貨である。現に排出権市場で取引されているカーボンはデジタル信号であり、移転費用はゼロであり、国際通貨としての属性を既に有している[6]



[5] 排出量取引(Emissions Trading)は、各企業・国などが温室効果ガスを排出することのできる量を排出枠という形で定め、排出枠を超えて排出をしてしまったところが、排出枠より実際の排出量が少ないところから排出枠を買ってくることを可能にし、それによって削減したとみなすことができるようにする制度である。「排出権取引」「排出許可証取引」とも呼ばれている。以下の3つから構成される。①クレジットの発行=使ったエネルギーの量や種類から排出削減量が計算され、クレジットが発行される。②電子登録簿=どの事業からのクレジットか、売買による所有者の移転などの情報を管理する。③排出量のオフセット=オフセットすれば「使用済み」となり、誰が使ったかも登録簿に記載される。このいずれの作業も、すべて、デジタルで行われ、瞬時に実施可能で、移転費用はゼロである。電子登録簿は集中管理型が使われているが、ブロックチェーンを使った分散管理型は構築が容易で、コスト引き下げが可能だとして、世界銀行などが実用化を検討している。なお、クレジットの信頼性問題やブロックチェーンによる電力消費問題、投機への懸念等、幾つかの課題もある。

[6] デジタル化には、不適切な使い方や投機目的に堕するリスクもある。このリスクは、排出量取引市場の信頼を損なうため、国際排出量取引協会(IETA)は、デジタル技術を気候変動対策で活用するためのガイドラインをまとめている。ガイドラインは、エネルギーやエネルギー多消費産業、法務・会計、クレジット発行団体など230社以上の参加企業の現場の指摘をもとにまとめられた。クレジットの信頼性については、ボランタリークレジットの業界基準であるICORA行動規範や、政府が管理するクレジットの利用を推奨している。エネルギー消費と排出量を抑える工夫、サイバー攻撃対策、二重使用防止対策、悪質事業者排除のための事業者の監査などを事業者に要求している。

5)炭素通貨とデジタル通貨(Digital Currency)

炭素通貨の誕生にとって追い風とも呼ぶべき朗報は、中央銀行デジタル通貨(Central Bank Digital Currency :以下CBDCと略称)[7]等の本格的なデジタル通貨の登場である。ビッドコイン等の暗号資産が注目され始めて久しいが、2019年に、民間ベースでは、米国メタ社が、国境を越えて自由に決済・送金でき、手軽にスマートフォンから使える電子マネー「リブラ」構想を発表したが、結局、米国当局から認可がおりず頓挫している。方や、CBDCへの取り組みはすでに世界的趨勢となっており国際決済銀行(Bank for International Settlements:以下BISと略称)の報告書によると、世界の中央銀行81行中、約90%が検討中であり、すでに試用運転開始中の中央銀行が26%もある[8]

こうした中で、中国は、すでに2014年からCBDCの研究を開始している。中央銀行の中国人民銀行は、デジタル人民元を現金の同等物として規定し、一般市民や企業がモバイル決済と同様に日常的に使用することを想定し、その正式な導入開始に向けてシステム整備をしている[9]

いずれにしても、キャッシュレスに向けた金融イノベーションの世界的潮流の中、現金コスト削減の観点からも、中央銀行のCBDC導入は、想定よりも早いスピードで、燎原の火のごとく、世界中に実装がはじまるかもしれない。こうした世界的潮流となりつつあるデジタル通貨の普及は、デジタル信号であり、移転費用はゼロであり、国際通貨としての属性を既に有している炭素通貨にとって、間違いなく追い風となるであろう。

本論考で扱う炭素通貨のもう1つの特徴は、パーソナル(Personal)な通貨である点にある。つまり、地球市民を前提としたグローバルパラダイムに転換する重要な革新性を持っている点である。国家と前提とせず。「地球人」としての1個人を単位とすることで、国際間の交渉に新しいステージを提供する点にある。

温室効果ガス削減の恩恵は世界全体で享受しうるが、削減コストは各国が負担しなければならない。各国は産業界等々様々な利益代表の調整もあり、そのコストと恩恵とのバランスが難しく、国際条約を取りまとめてゆくのはなかなか困難である。しかし、いままで国家単位や産業セクターを念頭に議論してきた視線を、さらにミクロの個人レベルまで分解すると、全く新しいステージが登場してくる。換言すれば、議論の舞台を国家レベルから地球市民レベルに分解して、ダウンサイジングすることによって全く新しいパラダイムシフトが生まれる可能性がある。その実現には政治・経済的な多くの障害と問題もあり、そう簡単ではないが、従来のパラダイムではありえなかった全く新しい次元の未来志向的な発想が生まれてくるかもしれない。


[7] 中央銀行デジタル通貨は、(1)デジタル化されていること、(2)法定通貨建てであること、(3)中央銀行の債務として発行されることの3条件を満たすものである。中央銀行は、誰でも1年365日、1日24時間使える支払決済手段として銀行券を提供しているが、以前からこれをデジタル化してはどうかという議論があった。現金を代替するようなデジタル通貨を中央銀行が発行することについては、具体的な検討を行っている国もある。民間銀行の預金や資金仲介への影響など検討すべき点も多いことなどから、多くの主要中央銀行は慎重な姿勢を維持している。日本銀行も、現時点において、そうしたデジタル通貨を発行する計画はないが、今後の様々な環境変化に的確に対応できるよう、しっかり準備しておくことが重要との認識で研究を続けている。一方で、中央銀行の当座預金という既にデジタル化されている中央銀行の債務を、新しい情報技術を使ってより便利にできないかという議論もある。多くの主要中央銀行では、新しい情報技術を深く理解する観点から調査研究や実証実験などの取り組みを行っている。(出所)日本銀行(2020)「中央銀行デジタル通貨とは」(2020年10月9日)

[8] 国際決済銀行(2022)“Gaining momentum – Results of the 2021 BIS survey on central bank digital currencies“ (BIS Papers No 125,May 2022)“BIS and four central banks complete successful pilot of real-value transactions on cross-border CBDC platform”(Oct 2022)   

[9] デジタル人民元の試用運転は、すでに2019年から開始しており、累計決済額は、1000億元(約2兆円相当)にまで拡大している。

6)炭素通貨とグローバルサウス(Global South)

全く新しいステージに登場する炭素通貨の地平線の向こうに見えてくる可能性は、単なる気候変動問題等の地球環境問題解決や、資本主義問題の過剰流動性等の宿痾の治療だけではなく、グローバルサウス(Global South)等の格差問題にも一石を投じるであろう。

炭素通貨は、全人類が平等に配分され使用できる地球環境要素を内部化した通貨であるがために、上述の事例説明の通り、化石燃料を大量に消費し、多大な地球環境負荷の犠牲の上に日々の生活を送っている先進諸国の人々が負担する対価は膨大なものになる。方や、グローバルサウスに居住する多くの人々は、自動車どころか、自転車すらない人々も多く、化石燃料をあまり消費せず、地球環境負荷の小さな生活を送っている。その結果、先進諸国の人々が炭素通貨利用を通じて最終的に負担する一種のペナルティーとして支払われる資金が、そのまま、グローバルサウスに居住する多くの人々に還流する。仮に、個々人のカーボンの収支を、国家ごとに合計すると、先進諸国のカーボン収支は大幅赤字となり、方や、グローバルサウス諸国のカーボン収支は大幅黒字となり、そのために、世界的な資金移動が想定される。この巨額の資金移動は、現下の政府開発援助(Official Development Assistance:ODA)の総資金量をはるかに凌ぐであろう。そしてこの膨大な額に及ぶ資金移動自体が、世界的な格差是正とグローバルサウス問題解決に大いに貢献する可能性が期待できる。一種、逆転劇の可能性もありうる。

7)グローバル・カーボン・マネー(Global Carbon Money)

炭素通貨の進化形である「グローバル・カーボン・マネー(Global Carbon Money)」は、地球環境価値に裏打ちされた世界共通通貨として、気候変動問題と国際通貨問題という2つの難解な連立方程式を同時解決できる「最適解」を提示してくれるであろう。

炭素通貨の実現は、国際的な制度設計の次元でも、技術的なインフラ整備の次元でも、おそらく難問山積で簡単ではないが、粘り強く検討することが肝要である。現下のカーボンは、欧州排出権市場等において存在している人為的な限定財であるが[10]、世界共通通貨であること、デジタル通貨であること、国家を超越した通貨であること等の、様々な革新的な要素を実装した新たな環境通貨たる炭素通貨の登場は、脱炭素社会の必須不可欠な戦略的キーコンテンツとなるであろう。それは、環境負荷を誰しもが共通に誤解なく瞬時に認識できる環境情報であり、人間社会に地球環境を内部化させるため最も有効な手段である。

ちなみに、この「炭素通貨」の応用編として、具体的政策提言の試論もある。既に先行研究としては、拙論「東アジア脱炭素経済共同体構想の意義とその実現可能性について―東アジア地域における炭素通貨と再生可能エネルギーを軸とした「協働型コモンズ」構築の必然性と可能性についての一考察―」[11]がある。世界各地の炭素市場が世界の単一市場に収斂してゆくグローバル・リンケージ(global linkage)に向けた兆候を念頭に、その第一歩として日中韓3か国の炭素市場の統合を目指し、東アジア共通の炭素通貨発行のための中央銀行として東アジア炭素銀行(East Asian Carbon Bank;EACB)を新設する構想である。様々な専門家による、この分野の拡張的な議論の進化発展の端緒となろう。

先哲の洞察や気づきと工夫を、古来の宗教の力ではなく、通貨システムのOS(Operating System;以下OSと略称)自体を書き換えることで全球的に再現しようとする試みが、実は、「炭素通貨」構想として、ケインズが構想した「バンコール構想」を地球環境の文脈で再生させる試みとして始まっているのである。

この「炭素通貨」構想の実現を通じ、究極の情報たる「通貨」というOSを書き換えることで、ようやく人類は、自ら犯してきた、気候危機や生物多様性問題、国際通貨問題、格差問題、貧困問題、戦争等の「愚かな実態」の根本原因である「外部性」問題や「情報の非対称性・不完全性」問題を、止揚(aufheben)できるのである。

近未来に登場する「新たなバンコール」構想を下地とした新しい国際通貨「炭素通貨」は、地球環境に本位した増殖しない通貨である。おそらく、日進月歩の進化を遂げている数学に基づく暗号通貨等の最新技術も取り込み、透明性と公平性が担保されたデジタル国際通貨として、世界の金融市場や決済システムで幅広く利用されるようになるであろう。

5年前の2018年12月にポーランドのカトヴィツェで開催されたCOP24の会場で再会したヨハン・ロックストローム(Johan Rockström)博士は、「世界を持続可能にする成功の物語が必要である」と述べていたが、まさに、本構想が、その「成功の物語」の端緒になれたら望外の光栄である。


[10] 2022年11月6日(日)から11月20日(日)にかけて、エジプト(シャルム・エル・シェイク)において、国連気候変動枠組条約第27回締約国会議(COP27)が開催されたが、そこで、排出削減・吸収量の国際的な取引を報告する様式や記録システムの仕様、専門家による審査の手続き、国連が管理する市場メカニズムの運用細則、京都議定書下の市場メカニズム(クリーン開発メカニズム)の活動やクレジットのパリ協定への移管の詳細ルール等が決定された。しかし、グローバル・カーボン・マネーへの進化発展に至る道のりは、依然として遠い。ちなみに、COP27では、気候変動対策の各分野における取組の強化を求めるCOP27全体決定「シャルム・エル・シェイク実施計画」、2030年までの緩和の野心と実施を向上するための「緩和作業計画」が採択された。加えて、ロス&ダメージ(気候変動の悪影響に伴う損失と損害)支援のための措置を講じること及びその一環としてロス&ダメージ基金(仮称)を設置することを決定するとともに、この資金面での措置(基金を含む)の運用化に関してCOP28に向けて勧告を作成するため、移行委員会の設置が決定された。

[11] 議論の骨子は以下である。東アジア炭素通貨圏構想の具体的な素描として、東アジア炭素銀行(East Asian Carbon Bank;EACB)による炭素通貨発行と炭素通貨流通の仕組みを構想する。世界各地の炭素市場が世界の単一市場に収斂してゆくグローバル・リンケージ(global linkage)に向けた動きを念頭に、その第一歩として日中韓3か国の炭素市場の統合を目指し、東アジア共通の炭素通貨発行のための中央銀行として、東アジア炭素銀行を新設する構想である。(出所)古屋力(2017)「東アジアエネルギー共同体の意義―東アジア地域における炭素通貨と再生可能エネルギーを軸とした「協働型コモンズ」構築の必然性と可能性についての一考察―」(アジア研究所平成26・27年研究プロジェクト「東アジア地域における環境エネルギー政策共同体の可能性に関する考察」)等々。

「炭素通貨」は、気候危機と資本主義の共通解となりうるのか(end of documents)