(1)幻の世界通貨バンコールの含意 ~ケインズの置き土産~
1)ケインズのバンコール(bancor)の含意
「この世で一番むずかしいのは、新しい考えを受け入れることではなく、古い考えを忘れることだ。」と喝破したのは、かの英国の経済学者ジョン・メイナード・ケインズであったが、いまこそ、彼の慧眼を、襟を正して敬意をもって再評価すべき時期かもしれない。
あの幻の世界通貨とも呼ばれたバンコール(bancor)が、いま、気候危機問題と資本主義問題の共通解として復活の好機を迎えつつあると言ったら、学生時代、経済学を少しでも学んだことのある諸氏は驚くだろうか。あるいは、地球環境問題の専門家諸氏は、「そりゃ絵空事だろう。実現不可能だよ。」と、一笑に付すのであろうか。バンコールは、78年前の1944年のブレトンウッズ会議[1]で、英国代表として参加したジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)が提案した幻の世界通貨である。
結局、バンコールは、米国側のホワイト博士が提示した米ドル基軸通貨構想が勝利し、惜しくも採用されなかったが、後日、あのホワイト氏自身すらその優位性を認めたという後日談付きの伝説の通貨でもある。バンコールとは、英語のバンク(bank)と仏語の金(or)を組み合わせた造語で、価値を固定させた世界共通通貨を国際金融機関が発行するという構想で、ICU(The International Clearing Union: 国際清算同盟)という世界中央銀行が想定されていた。米国代表のホワイト案に敗れた背景は、合理的な経済学者同士の議論の帰結ではなく、むしろ、衰退しつつある英国と成長盛りの米国との政治的世代交代を象徴する国際政治力学の結果によるものであった。
[1] 「ブレトンウッズ協定(Bretton Woods Agreements)」に基づいて確立した体制のことを「ブレトンウッズ体制」という。このとは、第二次世界大戦後半の1944年7月、アメリカ合衆国のニューハンプシャー州ブレトンウッズで開かれた連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)で締結され、1945年に発効した国際金融機構についての協定である国際通貨基金協定と国際復興開発銀行協定の総称。「アメリカ合衆国ドルを基軸とした固定為替相場制」であり、「1オンス35USドル」と「金兌換」によってアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に保つことによって自由貿易を発展させ、世界経済を安定させる仕組みであった。この体制は1971年のニクソン・ショックまで続き、戦後の西側諸国の経済の復興を支えた。このブレトンウッズ会議を締めくくるにあたり、英国代表のジョン・メイナード・ケインズが、世界の希望として国際協力を積極的に進めることの重要性をとらえ、「もし継続することができたなら、人類の兄弟愛が言葉だけのものではなくなるだろう」と述べている。しかし、残念ながら、いまやそれが反実仮想になった。世界秩序を俯瞰すると、アングロサクソン同盟を主導する軸が、英国から米国へと移り、そこで「ブレトンウッズ体制」という米国中心の世界秩序ができたことがわかる。つまり、英国から米国へというアングロサクソン同盟の主役交代であった。その後、1971年に、米国が一方的にドルと金の交換を停止する「ニクソン・ショック」が起こり、1973年に変動相場制に移行し、ブレトンウッズ体制は終焉を迎える。1944年からニクソン・ショックの1971年までを「ブレトンウッズ1」とし、1971年以降を「ブレトンウッズ2」と呼ぶこともある。こうした中で、イエレン米財務長官が、自由・民主主義的な価値観を共有する国・地域による新たな世界秩序を説いた。「ブレトンウッズ3」とも呼ぶ。しかし、実は、世界は、もはやブレトンウッズ体制の延長というレベルをはるかに超えた次元に至っている。現在まで続く世界の経済金融秩序の起源は、第二次世界大戦後半の1944年7月、まだ戦争終結の前、アメリカ合衆国のニューハンプシャー州ブレトンウッズで開かれた連合国通貨金融会議まで遡る。この会議で「ブレトンウッズ体制」が誕生した。米国が主導して構築した戦後の経済金融体制で、通貨切り下げ競争や保護貿易が戦争の一因になったとの反省から、1オンス35ドルで金と交換が保証され、米ドルを基軸通貨とするドルを金と交換できる唯一の通貨とする「金・ドル本位制」を採用し、IMF(国際通貨基金)や世界銀行、GATT(関税および貿易に関する一般協定;現WTO=世界貿易機関)を軸とする世界体制であった。かうして、国際通貨ドルが誕生し、今日に至っている。
2)気候危機問題解決と資本主義問題解決という
2つの難解な連立方程式を解く鍵
その幻の世界共通通貨バンコールが、人類経済社会システムの瓦解蹉跌と脱炭素社会構築に向けた世界的潮流の中で、気候危機問題解決と資本主義問題解決という2つの難解な連立方程式を解く鍵として、再び注目され、新たに地球環境の俯瞰的視座から再定義され、人新世(Anthropocene)時代の申し子として、復活の時を迎えつつある。それは、決して絵空事でも反実仮想でもなく、歴史的必然であり、近未来現実なのである。
気候危機問題は、greedyな人類が犯した人災であり、自己増殖を本質とする資本主義の帰結でもある。よって、資本主義の在り方を、根底から覆すようなパラダイムシフトを試みることで、資本主義固有の国際通貨問題や格差問題、貧困問題等の諸問題の解決に資するばかりでなく、同時に、気候危機問題自体の抜本的な解決の糸口にもなる可能性がある。
それでは、なぜ、その処方箋の鍵が、バンコールなのか。なぜ、バンコールの復活が、気候危機問題解決と資本主義問題という2つの難解な連立方程式を解く鍵となるのか。
以下、この小論で、その意味と必然性について、そして、実際の具体的な進化形として、地球環境本位制に基づく「炭素通貨」について、簡単に論点整理を試みたい。
(2)資本主義問題の深淵 ~過剰流動性と「システムなきシステム」の漂流~
1)システムなきシステム(non-system)
greedyな人類が犯した人災である気候危機問題の原因を究明してゆくと、自己増殖を本質とする資本主義問題に行き着く。その意味で、気候危機問題と資本主義問題は、同根であり、気候危機問題解決にとって、資本主義問題の解決が重要な意味を持っている。
戦後、アジア通貨・金融危機、サブプライムローン問題、リーマンショック等、様々な深刻な資本主義問題が頻発した。 かような、資本主義の宿痾とも形容すべき国際通貨・金融問題の根源には、現下のドル本位変動相場制の致命的欠陥の放置がある。
かつて、中国の銀行業監督管理委員会首席顧問シェン(Andrew Sheng)は、先の国際金融危機を招いた原因は、過剰流動性(excess liquidity)、過剰なリスクテイク(excess risk taking)、過剰なリバリッジ(excess leverage) 、過剰な貪欲さ(excess greed)の4つのe(過剰)にあると分析した。
この宿痾のごとき過剰流動性問題を生み出している現下のドル本位の変動相場制は、若干皮肉を込めて「システムなきシステム(non-system)」とも呼ばれた。そして、いまだに、この欠陥システムが、未解決のまま、今日まで漂流し続けている[1]。
問題の根源には「過剰」がある。それを許容しているのが、現下のドル本位の変動相場制という欠陥システムである。資本が実際に工場等生産活動に投資され、そこから生み出された価値の応分の期待収益である内は、実態価値の増加分だけ利益が還元されるという意味で、金利等投資収益も、常識の範囲でも許容できよう。しかし一定の「最適必要量」以上の過剰な資本は、実態の伴う健全な投資に向かずに、「お金がお金を生む投資」に向かう。いわゆる不健全な投機的な投資、換言すると「マネーゲーム」に向かうことになる。この時点で資本は、「必要」のためではなく、「欲望」のために投資されるように変質してゆく。過剰流動性は過剰期待を生む。そして健全な経済活動に必要な投資資金以上の資本余剰が世界中に溢れでる。お金が亡霊のように世界を席捲して、不幸を撒き散らす。そして世界中のごくわずかな、数パーセントの勝者が過分な贅沢をし、世界中の太宗の貧者が、さらに不幸になってしまう不条理を生み出す。
この過剰流動性問題の起点は、ニクソン・ショックにある。アメリカは、1971年8月15日に、金とドルの交換を一方的に停止した。その時点から、基軸通貨ドルは不換通貨として、糸の切れた凧のように漂流を始める。そしてその後も、米国は、基軸通貨国として通貨発行益(seigniorage)を享受し、直ちに赤字を解消しなければならないという緊張感を欠いたまま、兌換性のないドルを、際限なく世界に供給し続ける。その結果、過剰流動性が拡大し[2]、アジア通貨・金融危機、サブプライムローン問題、リーマンショック等、様々な深刻な国際通貨問題が頻発した[3]。
本来、投資には、「人間の健全で幸福な生活を担保する経済活動をささえるために必要な投資」と「余分で暴走する危険のある不健全な投資」の2種類がある。これはしっかり区別して、管理されなければならない。人類の英知を結集して、こういった歯止めの利かない資本という猛獣を飼いならし、閉じこめるための「檻」が必要である。しかし、いま「檻」はない。猛獣を自由放任で危険極まりないまま野放しのまま、今日に至っている。しかも、この猛獣は、貧困格差を助長するばかりか、戦争や気候危機を加速させ、生物多様性を破壊し、現下の資本主義システムの宿痾の諸悪の原因となっている。
[2] 「システムなきシステム」の弊害には枚挙に暇がない。1997年後半から始まったアジア諸国における通貨・金融危機は、ロシア、中南米にも波及し、国際通貨・金融システムの脆弱性を明らかにした。ちなみに、1990年代の国際通貨・金融危機はラテンアメリカ型とアジア型の二つに大別される。前者は、メキシコ(1994年)やブラジル(1998年)でみられたように、政府が財政赤字を垂れ流し、それを中央銀行が国債買い入れによって支えたことで市場の信頼を失ったことを主因とするものである。後者は、97年後半以降のアジア通貨・金融危機でみられたように、主として民間の借入の増大による過剰投資によって引き起こされたものである。
[3] ドルを基軸通貨とするブレトンウッズ体制には、米国と米国以外の国の間に、非対称的な関係が存在する。つまり、米国は対外支払いを自国通貨であるドルで決済することができる。米国以外の国は対外支払いを輸出などで稼いだ外国通貨であるドルで決済せざるをえない。 米国は、基軸通貨国特権(シニョレッジ、seignorage)を持つ。基軸通貨国が持つこのような特権や基軸通貨システムの非対称性(アシンメトリー、asymmetry)は、基軸通貨国と非基軸通貨国との間の不平等な関係をもたらしている。
[4] 市場が最適配分をもたらすためには、市場参加者の有する情報に非対称性がないこと、外部経済効果が存在しないこと、取引対象が公共財の性格をもっていないことなどが前提となる。ところが、「システムなきシステム」とも揶揄されている現下の金融市場においては、市場参加者の間で情報が偏在しているなど情報の非対称性が一般に見られるし、通貨・金融システムはある程度公共財の性格を有していると考えられる。
2)トリフィンのジレンマ(The Triffin dilemma)
2009年3月に、中国人民銀行周総裁は、国際通貨制度改革論を発表した。そこで、米ドルのような特定国の通貨に依存する現在の国際通貨制度の不安定性と脆弱性の問題を指摘し、国際通貨制度の抜本的改革を訴えた。彼は、所謂「トリフィンのジレンマ(The Triffin dilemma)」[5]を理由に挙げ、1国家の通貨ドルがグローバルな準備通貨となるのは、不適切であると主張した。加えて、かのケインズのバンコール構想に触れ、「先見の明が有った」と高く称賛し、基軸通貨ドルに代わる国際的な不均衡是正に貢献する新たな超国家的な性格を持つ国際通貨創設の必要性を説き、ドルに代わって国際通貨となる可能性を有するものとして、IMFの「SDR」(Special Drawing Rights・特別引出権)[6]を提案し、世界の流動性をコントロールできる国際機関の創設を求めた[7]。
かような現下の米国ドル本位制に対する問題提起は、中国人民銀行周総裁のみならず、ノーベル経済学賞を受賞者のジョセフ・スティグリッツ(Joseph Eugene Stiglitz)教授はじめ、様々な専門家からも指摘がある。この問題解決のためには、現行の基軸通貨制度から世界共通通貨制度にパラダイムシフトが必須不可欠であるとの意見も多い。こうした中で、2010年にはIMFが「Reserve Accumulation and International Monetary Stability」(IMF発表論文;April 13, 2010)で、グローバル通貨導入可能性に触れ、その通貨の名称を「バンコール」としたらどうかと提言した[8]。
かような「バンコール」復活論は、現下のドル基軸通貨制度から世界共通通貨制度へのパラダイムシフトの予兆と考えられる。そして、この「新しいバンコール」の誕生は、現下の資本主義システムの根本治療を通じて、人類経済システムの増殖性を制御する意味で、気候危機問題解決の文脈でも極めて重要な意味を持ってくる。
[5] 「トリフィンのジレンマ」は、「流動性のジレンマ」とも呼ばれ、ある国内の金融政策の目標を達成しながら、同時に他国の準備通貨の需要に合わせられないという矛盾を突いた問題提起である。つまり、特定の通貨を基軸通貨として固定する現下の国際通貨システムでは、基軸通貨の流動性向上とその信認の維持は両立が難しいという問題である。以前から専門家によって指摘されてきたことではあるが、現下の米ドル基軸通貨システムに巣くう致命的な欠点である米国ドル基軸通貨本位制度には、米国が、基軸通貨ドルの発行国であるがために、「慇懃なる無視(Benign Neglect)政策」を決め込めるという致命的な欠陥がある。つまり、変動相場制下、他国で建てられる個々の対ドル為替相場に対し配慮をすることもなく、対外決済も対内決済も等しくドル建為替による決済ができ、ドル建為替手形が指図する特定の商業銀行預金口座での振替決済で済むため、通貨発行国としてモラルハザードに陥るリスクがある。米国は、ドルの全面的大暴落を除けば、常に自国中心の独立した財政金融政策が可能なのである。これは、いわゆる国際収支調整の「非対称性(asymmetry)」といわれ、「米ドル本位制」の構造的矛盾もここに存在する。
[6] SDRは、一種の人工合成通貨で、加盟国の準備資産補完のため1969年にIMFが創設した国際準備資産である。IMFへの出資額に基づいて各国に配分されている。これまでの配分額は2042億SDR(約2900億ドル相当)となっており、配分を受けた国はこれをドルやユーロ等に交換してもらうことで外貨不足に対応できる。SDRの価値については、創設当初は金を基準としていたが、1971年の金とドルの兌換停止以降はその計算方法がたびたび変遷してきた。現在は世界の主要5通貨(ドル、ユーロ、人民元、円、ポンド)によるバスケット方式で日々価値が算出・公表されている。現状の SDR は、計算単位(ニューメレール)としてのみ存在するだけで、「机上の通貨(desk currency)」ともいわれる。そもそもSDRはブレトンウッズ体制下で国際準備資産である金とドルの供給が世界の貿易・金融資産の増大に追いつかず、その補完のために創設されたが、直後にブレトンウッズ体制が崩壊し変動為替相場体制に移行したため必要性が低下し、以降はIMFや一部の国際機関の単なる計算単位としての側面が強い。
[7] 周氏のSDR本位制の提言から既に23年以上が経過するが、この間に、SDRを新たな基軸通貨にする機運が国際的に高まることはなく、また、中国はじめ、その実現に向けた具体的な動きも出ていない。その理由は、基軸通貨は国益が衝突する大きな問題であるだけに、SDRに限らず、国際的な話し合いによって新たな基軸通貨を創設することは極めて困難であり、実現可能性は乏しいからであろう。
[8] IMF(2010)Reserve Accumulation and International Monetary Stability(Policy Papers)
(https://www.imf.org/en/Publications/Policy-Papers/Issues/2016/12/31/Reserve-Accumulation-and-International-Monetary-Stability-PP4456)
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