坂本龍一の作品に「Perspective」という彼本人が歌う曲がある。

人はそれぞれ自分の「視点(Perspective)」を持っている。立場や状況において、その「視点」は様々である。まったく同じfactに対して、自分のおかれた環境や立場によって、その捉え方は違うことが多い。どうしても、自己中心的にならざるを得ないことも多い。ここに、1枚の漫画がある。これは、その「視点」の相違を見事に描きだしている。


遠く宇宙空間から地球上を俯瞰すれば、様々な人類の「視点」が見えてくるだろう。それがゆえに、不毛な消耗戦が、無限装置の様に展開している。そこには、「情報の非対称性」がある。

ウクライナ戦争や気候危機対策に限らず、多くの「視点」のギャップが、そして、「情報の非対称性」が、多くの不条理や不幸を生み出している。これだけ、IoTやAIが発達進化した時代においても、いまだに、「情報の非対称性」は解消せず、一方的な、独りよがりな「視点」の独善は横行している。これを人間の業だと、言い切ってしまえば、それまでだが、そう居直ってもおれまい。そのために、多くの罪もない子供たちが命を落とし、無辜の市井の人々が路頭に彷徨っているのだから。

この「Perspective」を作曲した敬愛してやまない坂本龍一が、つい先月3月28日に死去した。71歳だった。あまりに悲しすぎる。彼の大きな喪失感は言葉に表せない。

「Ars longa, vita brevis」(芸術は長く、人生は短し)

坂本が好んで語ったと言われている医学の祖ヒポクラテスの言葉を思い出した。思い起こせば、いまから、10年前のことである。2013年3月11日、坂本龍一氏に出会った。日比谷公園での集会での邂逅であった。彼から、シルビオ・ゲゼル(Silvio Gesell)の名前が出たのは、会場の方々には、やや唐突感もあって意外でもあったようであったが、当時シルビオ・ゲゼルを研究していた自分にとっては、嬉しくもあった。あの日、3月11日の14時46分、日比谷公園で、坂本龍一、加藤登紀子、辻信一等々、日ごろ敬愛してやまない諸氏とともに「3.11」犠牲者に黙とうを捧げた。その後、坂本龍一氏は、後藤氏や飯田氏、辻氏とのダイアローグをした。その席上、坂本龍一氏自身の口から出たのが、シルビオ・ゲゼルの言葉であった。

ちなみに、シルビオ・ゲゼルは、バイエルン・レーテ共和国時代に金融担当大臣に就いたこともある経済学者で、あらゆるものが減価するのに通貨だけが減価しないために金利が正当化され、ある程度以上の資産家が金利生活者としてのらりくらり生きている現状を問題視し、これを解決するために自由貨幣、具体的には「スタンプ貨幣」という仕組みを提案した人物である。晴耕雨読の生活を続けながら書いた主著『自然的経済秩序(Die Natuerliche Wirtschaftsordnung)』を始め著書が多数ある[1]

かつて、メイナード・ケインズはその主著『雇用・利子および貨幣の一般理論(The General Theory of Employment,Interest and Monay)』の第6編「一般理論の示唆する若干の覚書」のなかでシルビオ・ゲゼルについて触れ、「将来の人々はマルクスの精神よりもゲゼルの精神から多くを学ぶであろうと私は信ずる」と述べ高く評価している。また、驚くことに、あのアインシュタインも、シルビオ・ゲゼルにほれ込んでいた。「私はシルビオ・ゲゼルの光り輝く文体に熱中した。貯め込むことができない貨幣の創出は、別の基本形態をもった所有制度に私たちを導くであろう」と褒めている。

この日「3.11」は、奇しくも敬愛してやまない宮崎駿監督が1984年にアニメ映画『風の谷のナウシカ』を公開した日あると同時に、いまから80年以上も前の1930年に稀代の経済学者シルビオ・ゲゼル(生年 1862年)が亡くなった命日でもあった。

「自分の思い通りに生きたかどうかが大事。長さではない。」

「教授」は、常々、そう言っていた。そして、その通り、生ききった。
いま、静かに、彼のピアノを聴いている。

requiescat in pace

[1] シルビオ・ゲゼルは、彼の論文「自然的経済秩序(Die Natürliche Wirtschaftsordnung, Rudolf Zitzmann Verlag; Lauf bei Nürnberg; 9. Auflage August 1949;)」の第3部「お金の実態(Das Geld, wie es ist)」の「序論」にてこう述べている。「100世代を通じて何十億人もの人間の手から手へと渡っていった、4000年もの歴史を持つ貨幣について、学問の方法が確立しつつある時代にわれわれが確固たる概念規定や理論を持たず、また世界どこでも貨幣の公式な取り扱いが学問的裏付けのないまま従来通り行われているという事実は驚くに値しない。」また、さらに、同書の第4部「自由貨幣:お金のあるべき、そして可能な姿(Freigeld Das Geld, wie es sein soll)」の「序論」の中でこう述べている。「山を前にした牛のように、人間の精神は抽象的なものの前で困惑してしまう。そして今まで、お金は完全な抽象物だった。お金にたとえられる物は何もなかった。金貨や紙幣など、異なった種類のお金はあったが、お金の本質である流通の制御能力との関係ではこれらの変種は完全に同じもので、このため貨幣学者はお金の本質に対してお手上げとならざるを得なかった。完全に同じだと比べようがなく、理解の糸口も見い出せない。通貨理論は常に乗り越えられない山に直面していた。世界のどの国にも、法的に認知され、お金を管理運営するための通貨理論なかつたし、今もない。どこでもお金の管理は経験則を基にして「だらだらと進められ」るが、お金の力は無制限に野放しのままにされている。ここでは金融や経済の基盤、すなはち、何千年もの間人間の手を次から次へ渡り歩き、その実際的な働きによって想像力が刺激される対象が問題になっているが、その対象をわれわれは3000年前から人工的に作り出していたのだ。これはどういうことなのか、考え直してみよう。政府部門でも民間部門でも最も大切とされることが、3000年前から意識もされず、盲目的に理解もされずに見過ごされてきたのだ。このいわゆる抽象的思考への絶望の証拠がまだ必要なら、それはここにある。」