今日は、3月11日。あの2011年3月の福島第一原発事故の「3.11」から、早いもので、もうすでに12年の歳月が経過した。
あの日、事故当事国日本が、狼狽しつつ右往左往している中で、地球の裏側のドイツのメルケル首相の対応は、的確かつ迅速であった。
彼女は、絶対に起こらないと確信を持てる場合のみ、受け入れることができる残余リスク(Restrisiko)が実際に原子炉事故につながった場合、被害は空間的・時間的に甚大かつ広範囲に及び、他の全てのエネルギー源のリスクを大幅に上回ると判断し、福島事故の4日後に3ヶ月の「原子力モラトリアム」を発令。31年以上動いていた7基の原子炉を直ちに停止させた。同時に、原子炉安全委員会に対し、国内の原子炉が洪水や停電などの異常事態に対して、十分な耐久性があるかどうかについて、ストレス・テストの緊急検査を行なうよう命じた。以降、彼女は「原子力は過渡期のエネルギーとして必要だ」という立場から転向し「経済に悪影響を与えない限り、原子力を出来るだけ早く廃止するべきだ」と主張し始め、「脱原発」に踏み切った。
その健全かつ迅速な政治判断が、ドイツにはあった。しかし、残念ながら、事故当事国日本には、なかった。あの「3.11」直後の国政選挙ですら、原発が議論の争点にもならなかった日本に対して、世界は、唖然とした。その後、12年の間に、世界中で、コロナ禍やウクライナ戦争等、あまりに多くの想定外の問題が続出した。難問山積で何ら明るい見通しがつかないまま、人類は当惑しながら、途方に暮れて、暗中模索状態で、今日に至っている。
加えて、日本には深刻な事実がある。それは、「3.11」の本質的な原因がなんら総括も反省も引責もなく風化しつつあり、抜本的解決ないまま放置されている驚くべき事実である。「喉元すぎれば」ではなかろうが、反省も抜本的改善もないまま、原発廃炉に向けたブレーキではなく、いまや、原発再稼動、新設に向けたアクセルをふかしはじめる始末である。もはや、狂気の沙汰である。
こうした実態をさらに突き詰めれば、そこに通底しているのは、率直に言って、日本のエネルギー政策に本質的に欠落している宿痾とも言うべき「エネルギー正義(Energy justice)の不在」が、常態化し悪化している事実である。この健全な「正義」がドイツにはあったが、事故当事国日本にはなかった。このままでは、第二の福島原発事故が起こってもおかしくない。これは由々しき深刻な事態である。
エネルギー正義は、以下の3つの「正義」から構成されている。ちなみに、ここでいう「正義(justice)」とは、「公正さ」の意味で使う。
1.「分配の正義」
=利益と負担の分配が十分公平なのかどうか
2.「承認の正義」
=社会的弱者や地域等のstake holderの利益や価値が、企業や行政に十分承認されているかどうか
3.「手続の正義」
=社会的弱者や地域等のstake holderが、意思決定手続に十分参加できているかどうか
はたして、日本のエネルギー政策は、「3.11」以降、この3つの正義が、十分担保されてきたのであろうか。わが国の実態は、どうなのであろうか。結論から言うと、その「正義」の実態は、惨憺たるものである。以下、幾つか、事例を挙げておきたい。
エネルギー価格の高騰もあり、手事な価格でエネルギーにアクセスできないエネルギー貧困の増加が問題となっている。危険で忌避されがちな原発の立地選定も、その実態は、過疎化等で主たる産業もない脆弱な地方の弱みにつけこんで、彼らのかけがえのない価値観や人生や家庭をないがしろにして、お金の力で一方的にねじ伏せながら強行してきた問題の闇は、依然として総括すらされないまま今日に至っている。
また、原発再稼働や新設の議論においても、依然として、官僚が都合よくお膳立てした審議会と閣議決定で半ば強引に決定する手法も、「アリバイ」つくりのための形式的儀礼にとどまるパブリックコメントも、旧態依然で、改善が見られないばかりか、むしろ形骸化が加速してるのが実態である。こういった行政の作業は、茶番であり、偽善であり不正義である。
こうした不正義と不公正が、常態化し、むしろ悪化しつつあり、厚顔無恥にも、白昼堂々と、まかり通っているのが、恥ずかしくも、日本の実態なのである。
その極みが、今年2023年2月10日に閣議決定された「GX(グリーントランスフォーメーション)実現に向けた基本方針」と「GX推進法案」(以下、基本方針と略)の一部始終である。形式的なパブリックコメントを実施し、審議会の結論が閣議決定されたが、「最初に結論ありき」の筋書き通りの唖然とするほど中身の薄い性急な手続であった。そして、基本方針の説明会・意見交換会も、異常に周知期間が短く設定され、しかも、驚くことに、その大半は閣議決定後の開催であった。普通、常識的に、パブリックコメントも説明会・意見交換会も、じっくり時間をかけて、丁寧に実施し、そこで汲み取った意見や提言を、誠実に斟酌して、それをもとに審議会で公正な議論を行い、その上で、ようやく閣議決定に持ってゆくのが当たり前であるにも、かかわらず、まったく、本末転倒で国民不在の手続なのである。
石油ショック後の価値観をそのまま引きずり、その後の進化・改善が、まったくみられないままに、依然として「結論先にありき」で、既得権益への忖度感満載の国民不在の日本のエネルギー政策は、末期的ですらある。まさにミゼラブルである。東日本大震災の10倍のダメージが想定される「南海トラフ地震」が30年以内に70~80%の確率で起きるとされているなかで、依然として「自国に向けた常設核弾頭」とも揶揄される原発が廃炉もせずにあまた温存されている危機意識の欠落は、あまりに愚鈍すぎる。そこにまったく危機感を感じず、「結論先にありき」で、防衛費増額を、原発問題抜きでやっきになって熱弁する為政者諸氏の知的水準を疑わざるを得ない。
世界の潮流は、再生可能エネルギーとEV(電気自動車)がキーコンテンツとなって、デジタル化の波も同期して、すでに大きなパラダイムシフトが稼動しつつある中で、その波に乗れず、周回遅れで、できない理由を挙げて不作為を正当化するだけの日本に、明るい未来はない。
我が国の為政者も、優秀だと言われている官僚諸氏も、こうした不作為の罪が、やがては、日本の未来の深刻なリスクになることを想像できる能力と解像度を、もっていないのであろうか。それとも、自己保身と責任回避への異常な執着ほどには、自分の本来のミッションや国民の幸福に対する責任遂行には、関心がないのであろうか。