2.いまこそ、世界一幸福な環境先進国実現に向けたパラダイムシフトを

2.1 世界一の「課題先進国」だからこそ、いまがチャンス

現下の日本の政治情勢は致命的に問題山積であるが、それでは、日本のこれからの未来には、もはや、絶望しかなく、展望はないのであろうか。

いや、それは違う。展望も可能性も十分ある。むしろありすぎるくらいである。これからでも、日本が、世界一幸福な未来型ウェルビーイング環境先進国に一気にパラダイムシフトすることは、十分可能なのである。

やや遅きに失する感はあるが、日本も、さすがに旧態依然として「経済成長がすべての問題を解決してくれる」という発想から卒業し、中長期的な展望に立って、「環境・福祉・経済」が調和した「持続可能な福祉社会」を目指す成熟社会の構築を本気で遂行する時期に来ている。

やや逆説的な言い方にはなるが、世界一の「課題先進国」だからこそ、日本にこそ、そのチャンスはあるのだと言っても過言ではなかろう。

ようやく、日本でも、近年に至って、SDGsや持続可能性、真の豊かさについての省察や、そのためのウェルビーイングなどをめぐる議論等々が、経済界や企業レベルでも活発に行われるようになってきている。依然としてグリーン・ウォッシュ的な問題もあり、依然としてまだ表面的なものにとどまっているきらいはあるものの、着実に気運は醸造されつつあることは、確かである。

むろん、日本が、ドイツに抜かれたとは言え、依然として世界第4位の経済大国であり、肝心の「幸福度」でも「平等度」さらには「環境パフォーマンス」でも、いままで無為無策で何も取り組んでこなかったわけではない。多くの志の高い民間企業や一部の行政官や政治家による地道な活動には敬意を表したい。日本には、優秀な人材も卓越した技術も潤沢な資金もある。世界中から高く評価されている分野も多々あり、自身を失う必要はまったくない。だからこそ、その実現能力と可能性の材料がまだある今だからこそ、問題点については、謙虚に自省し、そこから一気に挽回する最後の好機なのである。

けだし、残念ながら、日本には、この一気に挽回する最後の好機の前に立ちはだかっている分厚い壁がある。それは、「真の民主主義」が機能しておらず、「真の政治」が不在であることである。

一番危険な点は、残念ながら、わが国日本では、一部の志ある有識者や行政から的確な問題提起や取り組みはあるものの、日本全体では、肝心の政府も国民も含めて、全般的に、こうした問題意識に危機感がない点にある。

とりわけ深刻なのは、永田町の為政者諸氏の心に宿痾のごとく巣くっている、あきれるほど能天気なモラルハザードの蔓延である。要は、民主主義が形骸化してしまい、国民が、過去の事実を忘れがちで、一旦当選さえしてしまえば、国民からの厳しい追及があまりないことを良いことに、国民の総意と自分自身の公約や政策遂行との乖離に無頓着になっている点である。

昨今の政治資金問題は、その証左である。先の国会での低次元な応酬を垣間見ても、惨憺たる有様である。これは、どうしたことか。厚顔無恥にも開き直っている政治家の当事者も、それを傍観している国民も、誰も日本の未来を真剣に「自分ごと」として考えているようには見えないのである。

とりわけ、永田町の政治の世界で、為政者は、自分の次期選挙で当選することや政権内でのポジションの確保しか眼中になく、肝心の政策も、実態の伴わない空虚で耳触りの良い美辞麗句で装飾され、身勝手な自画自賛が蔓延し、独善的なガラパゴス的楽観論が蔓延していること自体が致命的元凶である。そして、社会保障財源のための税など厄介な負担の問題は先送りされ、その結果、国際的に見て突出した規模の膨大な借金を将来世代にツケ回ししている。為政者は、この深刻な事態に気がつかないのか、あるいは気がつかないふりをしているのか。前者ならあまりにお粗末であるし、後者ならこれは犯罪である。

現政権下では、政策推進面でも、「新しい資本主義」とか「異次元の少子化対策」とか、空々しい言葉が往来してるが、看板は派手で、掛け声だけは勇ましいものの、その進捗や成果を見るにつき、悲しいかな、あまり真剣に取り組まれていないのが実情である。まったく、それをけん制する民主主義が機能不全に陥っている。本来政治を監視する重要なミッションを持っているはずのジャーナリズムも、不毛な忖度にまみれ機能不全に陥っている。まったく政治に自制も牽制も効いていないのである。為政者も、これをよいことに、独りよがりに責任回避や自画自賛に終始している場合ではなかろう。日本全体で、謙虚に実情に向き合い、深く自省することが肝心である。

それでは、日本は、はたして、これから、どうしていったら好いのか。

日本が、世界一幸福な環境先進国実現に向けたパラダイムシフトを実現するための鍵は、前述した「幸福度」と「環境パフォーマンス」の2つである。以下、この2点について、論点整理を試みたい。


2.2 「幸福度」;人生における「機会の平等」を担保する抜本的社会システム改革を

まず、まっさきに断行すべき課題は、何と言っても、世界47位の低位水準にとどまってしまっている日本の「幸福度」の問題解決に向けた対応である。この問題の解決は、日本国民、個々人の1人1人の人生の質の向上、あるいは社会についての未来への希望や信頼感の醸成にもつながり、日本における人々のウェルビーイングを高めることにも寄与する最優先問題であり、事態は急を要する。

この問題の本質は、現下の日本では、人生における「機会の平等」が担保されていないことが根深い問題となっている。一見、表層的には「機会の平等」が保証されているように見える日本ではあるが、その実態は、深刻な機会の格差と不平等が宿痾のごとく蔓延してしまっている。

従って、その解決の鍵として、人生における「機会の平等」の保障、つまり、個々人が自らの人生において「共通のスタートライン」に立てる社会の実現が重要な鍵となる。

かつて、戦後、焼け跡から皆が一斉にスタートした時には「チャンス」は個々人に保証されていた。過去の高度成長時代には「機会の平等」があった。日本人にとって「万人にチャンスが開かれている」という感覚が、自己肯定感と希望を生み、それが土台となって「経済成長と平等化」の好循環を生み出してきた経緯がある。

それが、いまや「格差社会」への急激な移行に伴い、脆くも失われてしまっている。格差が世代を通じて累積する中で閉そくし固まってしまい、もはや個人のチャンスの保障は自由放任によっては実現されない状況に陥ってしまっている。そのためには、人生における「機会の平等」をしっかり回復し担保する抜本的社会システム改革で必須不可欠ある。

では、どのような「平等」が優先的に実現されるべきなのか。むろん、人生の各段階において「機会の平等」の保障されている社会が理想ではあるが、とりわけ重要なのはやはり生まれてから若年期までの人生の初期段階における機会の平等である。特に、近年、一番手薄だとその深刻な問題が指摘されている「人生前半の社会保障」の強化、つまり子ども・若者への教育、住宅、雇用等あらゆる面での公的支援が、目下の喫緊の課題である。「人生前半の社会保障」は、将来の選択肢の幅を確保する意味で、「自由」の保障を意味する。そうしないと、「親ガチャ」[1]という言葉に象徴されるように、格差が親から子へとそのまま引き継がれ、貧困の世襲化が続き、経済格差や地位が固定される社会になっていくだろう。

いますぐ着手すべきは、個人が人生において「共通のスタートライン」に立てる社会の実現である[2]。「人生前半の社会保障」が重要になるもう一つの大きな背景は、資産面を含む経済格差の拡大である。各人が人生の初めにおいて共通のスタートラインに立てるという状況が大きく揺らいでいる問題を解決することが、喫緊の課題である。



→次章:いまこそ「未来世代法」の立法化を(6)

[1] 「親ガチャ」は、生まれもった容姿や能力、家庭環境によって人生が大きく左右されるという認識に立ち、「生まれてくる子供は親を選べない」ことを揶揄した言葉。スマホゲームの「ガチャ」に例えた日本のインターネットスラングの1つ。

[2] こうした必須不可欠な政策を現実に進めていくには、そのための財源が不可欠である。その財源は、どこから捻出すべきなのであろうか。目下、米国への貢物化している不毛で高額な武器購入のための防衛費や、原子力や石炭火力への膨大な補助金等、旧態依然とした百害あって一利なしの予算配分を、潔く即座に廃止あるいは削減し、その浮いた分のすべてを、思い切って、こうした未来ある若者のための「人生前半の社会保障」の強化予算に充当することは、充分可能かなと考える。一部の政治家や既得権益層が自己保身のために粘着質に寄生してきた腐臭漂う汚いお金を、潔く、全廃し、未来の若者たちを応援するきれいなお金に変えるのである。ついでに言えば、いま、世間を騒がせている裏金や派閥の汚れ金等も、政治家なり派閥からすべて没収して、この未来志向的な「人生前半の社会保障」の強化予算に充当することも一考かと思慮する。