「ぼくたち、あんなに遠くまで出かけたのに、
 青い鳥はこんなところにいたんだ!」

(モーリス・メーテルリンク『青い鳥(L’Oiseau bleu)』)

1. 日本における「全体最適」の視座の致命的欠落

いまの日本にとって喫緊の課題は、「全体最適」の視座の致命的欠落への対処である。

日本には、金融、財政、為替というマクロ経済政策のみならず、気候危機対策、エネルギー対策等、さらには人権問題等、あらゆる政策分野において、時空ともに全球的な「全体最適」に近づける視座が、そしてそのための議論や努力が、ともに、致命的に欠落している。しかも、その事態の深刻さが共有されていないことは、二重の意味で深刻である。グローバルな全球的空間においても、ガラパゴス的な日本固有の「局所的部分最適」に安住し、歴史的にも、日本固有の「刹那的部分最適」を好しと正当化してきた。何が「全体最適」なのかを考える一般均衡論的な理論的枠組みも、その考えを実装する仕組みも、「全体最適解」を実現する気概を醸成する風土すらもまったく確立されてこなかった。そのつけがいま回ってきている。事態はことの他、深刻である。

いまこそ、日本は、「全体最適解」の不在という深刻な宿痾を直視し、「全体最適」に近づける視座が、日本国内においても、グローバルな全球的視座からも、致命的に欠落してきたことに謙虚に向き合い自省する必要がある。これは、日本という国家が永年抱えてきた深刻な宿痾であり、この「全体最適」の視座の充填・実装なくして、日本の明るい未来はないからである。

いまや米国のトランプが「米国第一主義」を標榜し、「部分最適」を志向しているのだから、日本が「全体最適」を志向しなくてもよいという議論は、本末転倒である。「トランプ2.0」の時代だからこそ、「全体最適」の視座の充填・実装が、自立する日本にとって、喫緊の急務なのである。

日本は、国家モデルも企業モデルも、未完成のジグソーパズルに似ている。そこにいまだ空隙のままになっている領域があるのである。それが何であるのかを見定め、その空隙を埋めるパズルの小片群を探して補填する作業を怠ってきた。特に、致命的に欠落しているパズルが1つある。それが「全体最適」の視座である。それは、国家モデルも企業モデルにも通底している深刻な欠落である。

日本型モデルの特長は,爾来、企業においても、行政においても、現場における当事者意識の高い優秀で責任感のある人材による高質な価値形成とそれを有機的に成果に結実する高い組織的実務能力にあった。しかし、省益あって国益なし。派閥あって国家なし。保身あって公益なし。為政者や経営責任者には、持つべき資質としての「全体最適」のビジョンと能力や見識が欠落していた。

ややアイロニーを込めて言うなれば、海図が不完全で、船長が不出来でも、何度も氷山に衝突し座礁しかけても、それでも、優秀な現場の力でなんとか沈没せずにやってこれてきたのが実情である。

そもそも、言うまでもなく「全体最適」のビジョンを持ち、そのための実効性のある戦略を策定し、遂行することは、為政者や経営責任者に求められる必須不可欠な基本的なミッションである。

しかし、現下の日本では、その能力が、為政者や経営責任者に実装されておらず、体制も戦略の形成と遂行に適した形になっておらず,必然的に戦略不全に陥りやすい構図があった。かつては、「島国根性」とも揶揄されたこの特性は、高度成長期はともかく、これからは通用しそうにない。このままでは、残念ながら、「失われた40年」が「失われた50年」になることは必至であろう。

しかし、悲観は無用である。なぜなら、この欠落しているパズルを、いまの日本に欠けた空隙に補填することは十分可能であるからである。「全体最適」の視座を実装することで、日本型モデルを発展させて問題を解決することは、いまからでも十分可能であるからである。だからやるしかない。

2. 日本における「失敗の本質」

「日本の伝統的企業の失敗の本質」のポイントは、以下の3点にある。

「変革の不条理」の罠

日本人は真面目である。それゆえに成功する。成功後も絶えず努力を積み重ねる。しかし、その内、成功体験に胡坐をかいて、現状に非効率や不正があっても、むしろ変革コストが大きくなるため、変革しない方が合理的という不条理に至る。つまり、「変革の不条理」の罠の問題がある。これを「パラダイムの不条理」 とも呼んでいる。

「ダイナミック・ケイパビリティ」の不全

「変革の不条理」を回避するためには、「全体最適」の視座をもって、環境の変化をいち早く感知し、そこに新しい機会を見出し、それを捕捉して絶えず自己変容していく動態能力、既存の資産・資源・知識を再構成し、再配置する能力、つまり「ダイナミック・ケイパビリティ(変化対応的自己変革能力)」を用いてベネフィットを生み出す必要がある。しかし、その能力を実装していない。つまり、「ダイナミック・ケイパビリティ」の不全の問題がある。

「本物の経営者」の不在

改革の不条理を回避し、変革を起こすには、最後はリーダーがあえて「正しいかどうか」主観的な価値判断を行って組織をリードし、その責任を取る覚悟が必要となる。しかし、「全体最適」の視座をもった大局観と的確な判断力をもって責任を持って判断できる有能なリーダーがいない。つまり、「本物の経営者」の不在の問題がある。国家経営も企業経営も同様、「本物の経営者」がいない。

グローバル市場での厳しい競争環境下、外国企業が急速に台頭してくる中、日本企業はかつて成功したパラダイムのもとに、真面目に効率性を高め、コストを削減し、そして利益を高めようと努力している。しかし、実はここに危険が潜んでいる。皮肉なことに、「真面目に失敗する」という「日本的なパラダイムの不条理」に陥る。

企業には基本的に「ダイナミック・ケイパビリティ(変革能力あるいは動態力)」と「オーディナリー・ケイパビリティ(通常能力)」といった2つの能力がある。

通常能力である「オーディナリー・ケイパビリティ」は、既存のビジネスモデルのもとに現状をより効率化する内向きの能力であり、企業活動を技能的に効率化する能力という意味で、「技能適合力」とも呼ばれる。日本企業は、これがお得意である。これに対して、「ダイナミック・ケイパビリティ」は、環境の変化をいち早く感知し、その変化の中に新しいビジネスの機会を捉え、この機会を実現するために既存のビジネスモデル自体を変革する能力、つまり既存の資産を再構成し、再配置し、そして再利用する自己変容力のことである。

このような一連の能力から構成される「ダイナミック・ケイパビリティ」は、企業が変化する環境に対して進化的に適応する能力という意味で、「進化適合力」とも呼ばれている。日本企業の多くは、致命的にこの「ダイナミック・ケイパビリティ」が脆弱である。

既存のパラダイムでは解決できない問題があまりにも多くなると、パラダイムは危機に陥る。その時、まったく別の方向から新しいパラダイムが登場し、既存のパラダイムは崩壊する。両者のパラダイムは相互に共約不可能で相容れない。パラダイムシフトは、改宗するかのような革命的なものなのである。

旧パラダイムよりも新パラダイムの方がより説明力があるとか、予測能力があるとか、そういった合理的基準に基づいてパラダイムはシフトするわけではない。そのパラダイムシフトの本質と緊張感を、一部の創業経営者を除き太宗の日本の伝統的企業の経営者は理解できず、その好機を活かせない。「ダイナミック・ケイパビリティ」が脆弱であるからである。

3. 日本における「取引コスト」による多臓器不全問題

こうした「ダイナミック・ケイパビリティ」が脆弱な日本の伝統的企業の「失敗の本質」の元凶については、専門家によって「取引コスト(trans-action cost)理論」で分析が試みられている。日本における経営の失敗は、「黒い空気」に覆われた日本企業固有の「取引コスト」による多臓器不全に起因しているという分析である。それでは、はたして、この「取引コスト」とは何なのか。実際に生きている人間は、近代経済学が想定している「ホモ・エコノミクス」のような完全に合理的でもなければ、完全に最大利益を追求しない。理性より感情が勝る場合もある。時には衝動的で野心的なアニマル・スピリッツが不合理な行動へと私たちを駆り立てることもある。人は完全合理的でもなく、非合理的でもない「限定合理的」であり、利己的利益を追求する。かような限定合理的で機会主義的な世界では、「取引コスト」が発生する。

初対面の知らない人と交渉する場合、自分が騙されたり、損な契約をさせられたりしないように、取引前にコストをかけて相手を事前に調査する。契約後も相手を監視するモニタリングコストが発生する。つまり、交渉・取引には「取引コスト」が発生する。

この「取引コスト」が、日本の伝統的企業内では、様々な組織内の人間関係上でも多く発生してしまう。そして、複雑化している。これが、日本の伝統的企業組織が合理的に失敗する要因となっている。「取引コスト」とは、私たちの身の回りに多く発生している。例えば、明らかに上司が間違っているのに、反論や、説得が面倒くさいがために、とりあえず上司の言うことを聞いておく。この場合、「人間関係の取引コスト=上司に反論、説得」となる。つまり、上司に反論、説得することで被るストラスや人間関係の破綻、さらには左遷や昇格機会の喪失等のリスクが「取引コスト」となり、上司に反論、説得をためらわせることにある。その結果、企業は、改善や成長の機会を失う。

個人と組織とを二者択一のものとして選ぶ視点ではなく、組織とメンバーとの共生を志向するために、人間と人間との関係(対人関係)それ自体が最も価値あるものとされる考えが支配し、そこで重視されるのは、組織目標と目標達成手段の合理的、体系的な形成・選択よりも、組織メンバー間の『間柄』に対する配慮を優先する思考である。それを「日本的集団主義」と呼んでいる。

社会的にはある状況や制度を変化させたほうがよいことがある。だが、変化するには、多くの利害関係者と交渉取引しなくてはならない。そのため、多大な「取引コスト」が発生してしまう。

高度成長期における日本企業には、まだ勢いがあり、衝動的で野心的なアニマル・スピリッツが横溢しており、「取引コスト」に頓着や拘泥をせず、リスクも覚悟で果敢にチャレンジする空気感があった。「ダイナミック・ケイパビリティ」がしっかり実装されていた。しかし、その後、高度成長を達成し、それなりに豊かな社会が実現した。企業も安定すると、企業自体も、保身に拘泥するようになり、またそこで働く社員も「取引コスト」に拘泥するようになってゆく。社内の空気を読み、取引コストを過剰に高く評価する傾向に陥り、変革が生み出すベネフィットはエビデンスが少ないため、過少評価されることになる。したがって、日本企業は変化しない方が合理的という不条理に陥りやすい空気感が支配し、それが故に、何もしないことが合理的であると多くの個人が考えてしまうようになってゆく。変化をしないままにし、不条理が発生してくる。専門家はこれを黒い空気と名付けている 。

4. 日本における「全体最適」の視座の不在と「黒い空気」という重篤な症例

日本における「全体最適」の視座の不在という宿痾の事例には、枚挙に暇はない。

古今東西、大同小異、様々な分野で「全体最適」の視座の不在が散見され、「黒い空気」による経営の失敗の死屍累々が続いてきた。要は、日本は、何度も同じ過ちを繰り返してきた。そして、歴史から何ら学んでこなかったことが明かである。そして、いま、この「全体最適」の視座の不在という宿痾が、日本の多臓器不全という致死的な重篤な発症を引き起こそうとしている。

「全体最適」の視座の不在典型的な事例としては、適応能力を失った日本軍のケースが挙げられる。名著『失敗の本質』[1]で、その組織的特徴と、適応能力を失うに至った要因が分析されている。日本軍の組織的特徴は、情緒的な結びつきを重視したものであった。官僚的組織を採用していたにもかかわらず、官僚制的な階層による意思決定ではなく、根回しやすり合わせによる意思決定がおこなわれていた。目標や手段の合理的な決定よりも人間関係への配慮が重視され作戦展開の意思決定を大きく遅れてしまった。そこに「失敗の本質」があった。また、『昭和16年夏の敗戦』[2]では、太平洋戦争開戦前夜の1941年(昭和16年)の夏、総力戦研究所でアメリカと開戦した場合のシミュレーションが行われ「日本必敗」という結論が導き出されていたにもかかわらず戦争へ突入していった史実が描かれている。当時の日本政府のトップには、「全体最適」の視座がなかったことが浮き彫りにされている。

この「黒い空気」による民間企業経営の失敗の証左としては、液晶パラダイムに固執して失敗した「シャープ」のケースが挙げられる。100 年近い歴史を持つシャープは、液晶技術に基づく商品開発に、次々と成功した。その後も成功に酔いしれることなく、液晶事業発展のために努力を重ね、巨額の投資を行い、液晶事業パラダイムを形成した。ところが、2008 年のリーマンショック以降、需要は急速に落ち続け、しかも海外からサムソンなどの低価格の液晶が流入してきた。この時、シャープはパラダイム変革を起こす必要があった。しかし、シャープにとって変革を起こすことは、これまでの膨大な投資を無駄にし、そして今後得られる利益も失うことを意味した。それゆえ、既存のパラダイムをめぐって利害を持つ多くの関係者を説得する取引コストは非常に高かったのである。このコスト負担を避けて、シャープはパラダイム変革を行うことなく、既存のパラダイムのもとに液晶事業を展開し続けた。しかし、それによって好転することはなく、赤字を増やし続け、結局、鴻海精密工業への傘下入りを余儀なくされた。「全体最適」の視座をもった大局観と的確な判断力をもって責任を持って判断できる有能な「本物の経営者」がいなかった。シャープは無知で非合理的ではなく、合理的に失敗したのである 。

昨年来の「フジテレビ」問題[3]も、同類の「黒い空気」という重篤な症例の典型的な証左である。シャープ同様に、「全体最適」の視座をもった大局観と的確な判断力をもって責任を持って判断できる有能な「本物の経営者」がいなかった。

1980 年代、視聴率三冠王を連発していたフジテレビは、栄光の時代を経験していた。この成功体験に、フジテレビの社員は気が緩み、努力を怠ってきたわけではない。むしろ逆である。その後も努力し、過剰なくらいに適応してきたのである。当時のフジテレビの番組に共通していたパラダイムは、お笑いを通して権威主義に挑戦し、建前だけのテレビの世界を破壊し、本音で迫ることであった。特に、バラエティー番組などを通して既成観念を破壊し、常識や規範に挑戦するその態度に、当時の多くの若者が共感した。しかし、インターネット時代がやってくると、テレビ自体の存在意義が変わりはじめ、お笑いだけでは視聴者を満足させることはできなくなった。フジテレビは、パラダイム変革を起こす必要があった。しかし、「全体最適」の視座をもった大局観と的確な判断力をもって責任を持って判断できる有能な「本物の経営者」がいなかった。既存のパラダイムの中で育ってきた経営陣にとって自体解明と説明責任を果たす取引コストはあまりにも高かった。こうして、フジテレビは変革に伴う多大なコストを避け、「全体最適」の視座なきまま、環境の変化に適応することなく、合理的に非効率的な現状に留まった。その経営判断の失敗が、今日の醜態に至る伏線にある。

上述したシャープやフジテレビ、日本軍の失敗の他、かつての「3.11」の際の東電も東芝や、最近の日産やパナソニックの失敗も、みなその失敗の本質は、同根である。中でも、「全体最適」が欠落している典型的な醜悪な場所が昨今の永田町の世界である。多くの議員は、その言動を見る限り、残念ながら「全体最適」の視座をもった大局観と的確な判断力を実装していない[4]。いやその自覚すらないとすら見える。

政治や行政における「全体最適」の欠落の事例は、その証拠は枚挙に暇がないが、昨日2024年12月に出された「第7次エネルギー基本計画」[5]は、国民の合意を得ないまま従来の方針を180度大幅転換し「原発の活用を最大限に進める」方針を打ち出した国民不在の独善的な計画で、「パリ協定」を軸とした世界の脱炭素化の潮流という「全体最適」をまったく無視した典型な悪事例であろう。

[1] 戸部 良一(1991)『失敗の本質: 日本軍の組織論的研究』

[2] 猪瀬直樹(1983)『昭和16年夏の敗戦』。太平洋戦争開戦前夜の1941年(昭和16年)の夏、英国をモデルにして内閣府直属の機関として1940年(昭和15年)に設立された「総力戦研究所」で米国と開戦した場合のシミュレーションが行われ「日本必敗」という結論が導き出されていたにもかかわらず戦争へ突入していった史実を描いた。現役バリバリの年齢の30歳台前半のエリートが、「模擬内閣」による「総力戦シミュレーション」に参加。そしてあらゆる予断を排して、客観的な数字に基づいてシミュレーションを行った結果が、なんと「日本敗戦」だった。第2次世界大戦は総力戦であった。国力に劣る日本が米国を敵に回した時点で、あとはどう負けるかの戦いだった。なぜ負けると分かっている戦争を止められずに開戦に至ったか。当初は題名『昭和16年夏の敗戦 総力戦研究所”模擬内閣”の日米戦必敗の予測』で、世界文化社より1983年8月に出版された。後に改題され、文藝春秋の文春文庫より1986年8月25日に出版。小学館『日本の近代 猪瀬直樹著作集』とその電子版『猪瀬直樹電子著作集「日本の近代」』の第8巻として、題名『日本人はなぜ戦争をしたか』で、2002年7月1日に出版。中央公論新社の中公文庫より2010年6月に出版、その新版が2020年6月24日に出版された。

[3] 「フジテレビ不適切接待疑惑問題」は、元タレントの中居正広による性犯罪トラブルに端を発する一連の騒動。2025年1月にはフジテレビジョンへと波及し、スポンサーの大半が同局での自社CMの放映を差し止め、公共広告などに差し替える事態となっている。さらにフジテレビをキー局とするフジネットワーク(FNS)の系列局にも影響が波及。単なる芸能スキャンダルを超え、中居正広の芸能界引退、親会社のフジ・メディア・ホールディングス(FMH)の経営問題や同社株式をめぐるマネーゲーム、社会問題へと発展した。フジテレビは2025年3月31日、本件問題について調査した第三者委員会の報告会見を行った。

[4] 周知の通り、あれだけ選挙で大敗し、国民から厳しい鉄拳をくらったにもかかわらず、依然としてお金に拘泥し、政治資金禁止に抵抗し続けている与党の低劣な言動も、「全体最適」を無視した象徴的な証左であろう。むしろ、自党の村内部の身内間での忖度や組織内でしか通用しない「常識」で判断し「部分最適」で行動しているのが実情である。自らの次期選挙における当落等の保身への強い関心や拘泥に比べ、本来のミッションである国民生活の安寧や受益、国家の長期的展望、さらには国際秩序における日本の立ち位置に対する真摯なダイナミック・ケイパビリティの姿勢も能力も自覚も、残念ながら、致命的に欠落しているのが実情である。

[5] 経済産業省「第7次エネルギー基本計画」は、国民の合意を得ないまま、従来の方針を180度大幅転換し「原子力発電所の依存度を可能な限り低減する」としてきた従来の文言を勝手に削除し「原発の活用を最大限に進める」方針を打ち出した。また、今後運転期間の上限に達して廃炉が増えることを踏まえ、既存原発の活用に加えて次世代革新炉の開発・設置に取り組む方針も盛りこむと同時に、廃炉が決まった原発を持つ電力会社の原発敷地内での次世代革新炉への建て替えの推進も盛りこんでいた。方針は、経団連が10月に公表した次期基本計画の策定に向けた提言の「完コピ」であった。国民的議論がないまま決められつつある「原発回帰」や、実用化が不確かな 「CCUS やアンモニア燃料」等の確度がまったく検証されていない将来的な技術的イノベーションに偏重した方向違いの政策案も盛りこまれていた。ちなみに、去年2023年11月下旬に公表された2022年分の政治資金収支報告書では、企業・団体献金の総額は24億4970万円で、このうち自民が9割超の22億7309万円を政治資金団体「国民政治協会」などで集めた事実が、明らかになっている。企業献金はカネというツールを政治に持ち込み、自身の利益につなげる単なるビジネスの手法である。大企業が政治をカネで買うことと同義で、大企業に有利な政策ばかり居並ぶことになりかねない。こうした国民不在の計画に対して、去年2024年12月17日の開示以降、「これは、事実上買収・賄賂である巨額の政治献金を与党自民党に提供してきた経団連等大企業への忖度のために他ならない。こうした事態が、日本国民1人1人にとってとても危険な民主主義の後退を意味する。いままさに国会で政治資金について議論している最中に、どういった神経をしているのだ。」との厳しい批判もあったが、結局、2025年閣議決定してしまった。ちなみに、あれだけ選挙で大敗し、国民から厳しい鉄拳をくらったにもかかわらず、依然としてお金に拘泥し、政治資金禁止に抵抗し続けている与党の低劣な言動も、「全体最適」を無視した象徴的な証左であろう。

5. 「VUCA の時代」にこそ求められる本物の経営者・為政者の資質

現代のような 変動(Volatility)的で、不確実(Uncertainty)で、複雑(Complexity)で、そして曖昧(Ambiguity)な「VUCA の時代」にこそ、環境変化を感知し(sensing)、そこに機会を捕捉し(seizing)、既存の資産や資源を再構成して自己変容(transforming)しプラス部分を高める「ダイナミック・ケイパビリティ」が必要となる。いまこそ本物の経営者・為政者の資質が求められている。

日本にとって致命的な課題は、西洋社会と異なり階級社会で育っていない日本人エリートは、なぜ上に立つのかという哲学がないことである。

日本の伝統的企業組織には、特に大企業には東大法学部卒を筆頭に有名大学卒の成績優秀な人材を好んで採用する傾向がある。こうした人材の多くはいわゆる「点取り虫」である。幼少期から受験競争でいかに良い成績をとるかの技術に注力してきた。要領だけよい人間もいる。そのため、成績さえ良ければ人の上に立てるという皮相的な優越感を伴う成功体験を積み重ねて地位を獲得してきた。小心者で、虚栄心だけ肥大し、リスクや評価に敏感な割に、責任感や、自分で考え判断する能力が衰弱していた。その結果、損得勘定ばかりで物事を捉え、入社後も、もっぱら、上司の顔色を観察し俊敏に点取りを効果的に獲得する技術のみを習得する打算的な人材が多く生まれてきた。そして、皮肉なことに、そうした浅薄な出世マシンが多く出世し跋扈した。彼らは、上司の覚え目出度く、順調に出世し、経営幹部となる。その結果、日本の伝統的企業組織の経営者は、過去の成功体験にもとづく無難な判断はできても、責任を引き受けて毅然とした価値判断をすることに慣れていない。現場の実態や顧客のニーズよりも、上司が何を考えているかを判断基準とする傾向が習性となり、表明的かつ打算的なリーダーが多い。こうした経営者は、上司に反論し説得することで惹起される「取引コスト」にことのほか敏感で、自己が被るリスクを最小化する傾向が強い。企業内でも、主体的判断応力のないリーダーが、無難な科学性客観性データのみから意思決定をしようとすれば、全会一致が目標となる。そうなると、次はコンセンサスを得やすい人ばかりが選ばれ、日本の組織は合理的に堕落、腐敗し、合理的に自壊する。

こうした宿痾は、企業衰退の元凶であると同時に、日本人そのものの人生にも、さらには日本人の幸福の在り方にも影を落とした。

自分という個人も社会という組織の一員であり、主観というものを持たないがために、自分の人生にも失敗するのではないかという不安が常につきまという。自分は間違っていると思っていることでも、そちらに従ってしまう。学校、就職、結婚、価値観、恋愛などなど、まわりの流れに合わせて生きていれば楽なのだ。しかし、それが自分の求める人生なのかと自問自答する。自分の主観で判断して生きていないがために、人生にとって本当はとても大事な多くのことを見誤まる。結果、自ら「正しいかどうか」価値判断し、「もし正しいとすれば、何をすべきか」という行為を要求する「実践理性」が致命的に欠落する。これは、個人の生き方を考えるのに重要な意味を持つ人間としての「品」や「気品」にも通底する。「取引コスト」の問題は、単に日本企業の興亡に致命的な影響を与えるだけに留まらず、日本人1人1人の幸福の本質にも重要な影響を与えているのである。

現代のような「VUCA の時代」にこそ、環境変化を感知し(sensing)、そこに機会を捕捉し(seizing)、既存の資産や資源を再構成して自己変容(transforming)しプラス部分を高める「ダイナミック・ケイパビリティ」が必要となる。これは、企業のみならず、我々日本人1人1人も、実装することが求められている。この問題は、フジテレビや日産等の問題にとどまらず、日本企業全般や永田町政治全般に通底する。さらには、我々日本人1人1人に通底する問題なのである。

6.「ポスト・トランプ」を射程にいれた日本の「全体最適解」の模索

国際政治の分野においても、日本は、試練の時代にいる。

いまや、「トランプ時代」である。米国が覇権国の座を降り、「Gゼロ(G-Zero world)」[6]に向かおうとしている。そして、その後継たる新たな覇権国が不在のまま、グローバリゼーションの分岐点・過渡期の真っただ中にある。まさにいま、世界は「海図なき航海」に船出しようとしている。

この潮目の時期だからこそ、日本には、これから不可避的に到来する「海図なき航海」に備えて、「全体最適」の視座の実装が求められている。そして、いますぐにでも、日本は、「ポスト・トランプ」を射程にいれた「全体最適解」の模索を、開始しなければなるまい。あまり猶予はない。

米国に安全保障と言う人質をとられている日本にとって、トランプに真っ向から抵抗することは難しく実に悩ましい立場ではある。しかし、だからこそ、「パクス・アメリカーナの終焉」「ポスト・トランプ」を視野に、その向こうに見え隠れしている地平線を射程に入れて、今から、用意周到にシミュレーションをしておくべきであろう。「全体最適」の視座から、いまこそ、一旦、外交政策も防衛戦略も、ゼロリセットして、長期的戦略を策定しておくべき時期にきているとも言えよう。

肝心なことは、日本が、従来の外交の「常識」であった「対米従属路線」の「イナーシャ(慣性)」から卒業するタイミングが、すぐ眼前に、不可避的な事実として到来しつつあることである。いままでのように、米国の顔色を伺いながら、右顧左眄しつつ、あたかも米国の従属変数のごとく思考停止したまま盲目的隷従をする時代から卒業すべきであろう。そして、自分の意思で、自分の考えで、毅然と外交を含む国策を策定推進する時代にすでに時代は変りつつあることを自覚すべきであろう。そのためには、自らの確固とした「全体最適」の視座を実装することが必須不可欠である。

周知の通り、第二次大戦後から現在に至るまでの米国の優位性は、「基軸国」であることにあった。ここで、「覇権」の本義を読み誤ってはならない。米国が直接的に他国を支配する覇権構造とは違い、言語である英語は「基軸言語」であり、米軍は「基軸軍」であり、通貨の米ドルは「基軸通貨」であった。世界中の国々同士、日本と韓国、ドイツとチリとの貿易に基軸通貨として米ドルで決済される。言葉も、ドイツ人とチリ人、日本人と韓国人とが英語で対話をする。「言語」や「通貨」を通じて米国と言う文化力が世界中で使われる。「通貨」も「英語」も、世界中のみなが使うから使うと言う「自己循環論法」に拠っている。そこに「イナーシャ(慣性)」が働く。「基軸国」である米国を読み解く上で、この点が肝となる。これが「パクス・アメリカーナ」を担保してきた。そして、いま、その「パクス・アメリカーナ」が、根底から、瓦解しつつある。その瓦解の引き金を引いているのが、他ならぬ「Make America Great Again(MAGA;アメリカ合衆国を再び偉大な国にする)」を連呼し「国益第一主義」を掲げたトランプ大統領ご自身である。

トランプ政権の、関税の一方的な引き上げや海外からの投資規制など介入主義的な手段を厭わない一方的な保護主義的強硬策は、ドルの基軸通貨からの離脱を加速する可能性が大いにある。トランプが、一方的にかつ強硬に関税政策を連呼し、グリーンランド買収やパナマ運河接収を連呼するたびに、世界中の人々の米国に対する信任は希薄化し、基軸通貨米ドルへの信認は揺らぎつつある。その事態の深刻さは、トランプ自身が想像以上のものであろう。そして、現に、米国内外の多くの経済専門家が、異口同音に、その危険性を警告し、その悲劇的結末を懸念し、予告している。

米ドルが「基軸通貨」である時代の終焉を覚悟することは、決して杞憂でも絵空事でもなく、今、日本にも求められている極めて近未来現実的なシミュレーションの1つである。冷静に「ポスト・トランプ」を視野に、次の第一手を考え準備するべき時期にいることは明らかである。地震が起きてからでは遅すぎる。近未来に興るであろう大地震に周到に準備して、備えるべきであろう。

言うまでもなく、米国は、いままで、「基軸通貨国」として多大なる恩恵を被ってきた。米国連邦準備銀行(Federal Reserve Bank ;FRB)が発行したドルの7割は世界で流通している。「基軸通貨国」米国が享受する多大なメリットを、一般に「通貨発行益(シニョリッジ[7];seigniorage, seignorage)」と呼んでいる。

かつて、ニクソン大統領は、1971年にドルの基軸通貨からの離脱を試み、ドルの金兌換停止を宣言した。これが「ニクソン・ショック(Nixon Shock)」[8]である。

ニクソンは、ノーベル賞受賞経済学者ミルトン・フリードマンのアドバイスに従って、ドル金兌換停止を宣言した。フリードマンは、ドルの金兌換停止によって、為替レートを外国為替市場に委ねることで、国際収支均衡が働き、国際赤字が解消し、ドル高が是正され、ベトナム戦争で疲弊した米国経済が立ち直ると提言した。しかし、その結果は、ニクソンの期待に反した。ドルの基軸通貨からの離脱は実現せず、そのままドルは基軸通貨であり続け、国際赤字は解消されないまま続いた。ニクソンの思惑は、みごとにはずれたのであった。

いまや、トランプ政権は、このニクソン政権の失敗を、より大規模な形で繰り返そうとしている。その自覚が、トランプ自身にどこまであるかは分からない。

このままでは、米国は、基軸通貨国であることの巨大な恩恵を失い、本当の衰退が始まるだろう。不幸にも世界経済は大恐慌に陥る可能性すらある[9]。トランプはあまり自覚がなさそうだが、1930年代の世界大恐慌が、基軸通貨がポンドからドルに移る空白期に起きたことを想起すべきであろう。

いずれにしても、このまま「トランプ2.0」が独断断行していったら、パクス・アメリカーナは早晩終焉を迎えるであろう。むろん、国際通貨制度には「イナーシャ(慣性)」が働く。当面米国ドル本位制が継続するかもしれない。しかし、時間の問題である。もはや、楽観は禁物である。

トランプにとって不幸なことは、基軸通貨国であることのメリットの大きさを理解できず、公共財として基軸通貨たる米国ドルを供給するコストにこだわって、米国が享受してきた本質的なシニョリッジの恩恵の重大さを軽視していることである。そして、こともあろうか、自らそのシニョリッジを放棄しようとしているのである。

トランプ自身が、自分の政策が及ぼすリスクに対する解像度があまりに低いことは深刻である。これほど自虐的で愚かな政策はあるまい。トランプは、いまこそ、その事の愚行に気付くべきであろう。失った後で、後悔しても、後の祭りであるから。

目下、まだ米経済は全体としては堅調である。トランプ大統領の支持率は、第二次政権始動以降、低下傾向にあるものの、第一次政権時と比べてもまだ高い。しかし、楽観はできない。

関税政策による保護主義的な通商政策や移民の抑制による労働供給の減少は、経済に対するマイナスの供給ショックとなる。スタグフレーション的な影響を及ぼす。貿易戦争では相手国からの報復措置などもあり得る。「トランプ2.0」は、やればやるほど、多義的に、米ドルが「基軸通貨」である時代の終焉を加速させる。そのしわ寄せは、すべて米国民の生活に襲いかかる。トランプ政権再来を漠然とした期待感で支持してきた「怒れる民衆」が、トランプ政権が掲げた公約実行に伴う負の側面を目の当たりにして失望し、その裏切りに対して怒り、逆に、トランプ反支持に転じ、米国政治が、さらに混迷し分断する可能性すらある。現に消費者信頼感指数などが低下し始めており、関税政策で消費マインドに悪影響を及ぼし始めている。いまや、予断を許さない状況にある。

今後のシナリオは2つ考えられる。どちらになるかは、分からない。

●米経済が堅調推移し、まずまずの経済状況が持続するシナリオ。

トランプ政権の政策は米国にとっては正しかったということになる。米国第一主義的な政策、そしてグローバリゼーションの巻き戻し等を含め「トランプ2.0」にさらに拍車がかかる。

●経済が大きく混乱し「トランプ2.0」が裏目に出てトランプ支持率が大きく低下するシナリオ。

米国経済は低迷し、世界から米国へに信任は失墜し、米ドルが「基軸通貨」である時代が終焉する。グローバリゼーションについて再評価がされ、全体では米経済の繁栄に貢献していたとして、自由貿易、国際協調主義の重要性 が再認識される。トランプ時代は終焉を迎え、世界は、新たな世界経済の体制・パラダイムを探るフェーズに入って行く。

ちなみに、トランプ以前の、従来の国際政治体制のピラミッドは、第1階層から第3階層までの3階層からなっていた。第1階層はさらに3つの水準に区分される。ピラミッドのトップの第1階層の第1水準に位置するのが、軍事的ヘゲモニーを有する唯一の超権力としての米国である。第2水準には、G7のようなグローバルな金融制度を管理する国民国家群が来る。第3水準に位置するのは、IMFやWTOなど文化的・生-政治的権力を配備する国際機構である。第2階層はさらに二つの水準に分かれる。第2階層の第1水準に位置するのが多国籍企業のネットワークである。第2水準には、ヘゲモニー権力との仲介機能を果たす一般の国民国家群が位置する。そして最後に、第3階層には、国連総会や各種のNGO等の民衆の利益を代表する諸集団が入る。そのヘゲモニーの頂点に君臨している米国が、このヘゲモニーがゆえに、わが世を謳歌してきたん米国が、いままさに、トランプによって、自ら下野しようとしてるのである。

まさにいま、このグローバルな米国を頂点とした国際政治体制のヘゲモニーが、瓦解しつつある。

こうした中、日本が警戒しなくてはならないのは、米国はあくまで自国の国益というコンテナの中で思索行動しているという自明な事実であり、トランプ時代になって、米国自体が、その「全体最適」の視座を、自ら放棄して、自国第一の「部分最適」に自閉してしまっている事である。

そのリアリティを、はたして、日本では永田町も霞が関も企業経営者も、どこまで近未来現実として緊張感をもって認識しているのか。そして、「パクス・アメリカーナの終焉」「ポスト・トランプ」を視野に、日本は、はたして、いかなる「全体最適」の視座をもって、いかなる最適解のpositionを目指そうとしているのか。すでにそういったリアルな処方箋策定に着手しているのであろうか。そうした議論や真摯な声が、いまだに国民にはまったく届いていないのが実態である。

肝心なのは、世界の命運が、このパクス・アメリカーナという制度空間の破綻の後、「Gゼロ(G-Zero world)」の世界で、再び人間の生存の身丈に合った健全で持続可能な規範空間をいかにして再生してゆくかにかかっているということである。これは、前代未聞の難題であり、人類が連帯して取り組むべき最重要な課題となる。

そして、日本にとって重要なことは、こうした未来展望を念頭に、「Gゼロ(G-Zero world)」の世界の中で「全体最適」の視座をもっていかに地に足のついた長期的戦略を策定してゆけるかである。

日本は、そろそろ愚鈍な思考停止から卒業し、従来型の米国への盲目的隷従をやめ、この制度空間の破綻後の新しい「Gゼロ(G-Zero world)」の国際秩序における日本のあるべき立ち位置を見定め、日本のあるべき自立した国家像をしっかり描いておくことが肝要である。

京都大学の高坂正堯教授[10]が、かつて、すでに半世紀近く前に、1981年に著書『文明が衰亡するとき』で、「変化への対応力の弱まりは日本の衰頽と言うことになる」と喝破されたことがあったが、まさに、いまこそ、日本の変化への対応力が試されているのである。そのためには、「全体最適」の視座の実装が急務であることは、論を待たないであろう。

いまこそ、日本にとって肝要なことは、日本政府のみならず、企業も、そして、我々日本国民1人1人も、自立して、自分の頭で、自分の言葉で、主体的に考えることである。

そして、「パクス・アメリカーナの終焉」「ポスト・トランプ」を視野に、その向こうの地平線を射程に入れて、あるべき補助線をひいて未来図を描き、「全体最適」の視座から、いまこそ、長期的戦略を策定しておくことであろう。

これは、対岸の火事ではない。

いま、我々の目の前で、足元ですでに起こっている事件なのである。

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[6]ユーラシア・ グループのイアン・ブレマー氏は、既に13年前の2012年に、その著書『G ゼロ(Every Nation for Itself: Winners and Losers in a G-Zero World)』で、トランプ政権の掲げる「米国第一主義的」な政策台頭の可能性について指摘していた。 ちなみに、「Gゼロ(G-Zero world)」とは、欧米の影響力の低下と発展途上国政府の国内重視によって生じた国際政治における権力の空白のことで、経済的にも政治的にも、真に世界的な目標を推進する能力と意志を持つ単一の国や国のグループが存在しない世界を説明する際に用いられる。社会保障支出や軍事費の増大により増え続ける公的債務残高や、新興国の台頭による米 経済の世界経済におけるプレゼンスの低下、また製造業の国外流出などを背景とした国 内の格差拡大などを受けて、超大国アメリカが国際秩序の維持や自由貿易体制の保護など、世界のリーダーとしての役割に次第に距離を置き始めるという指摘である。しかも、そ の後継たる新たなリーダー国も当面存在し得ないため、世界はリーダー無き混沌の時代 「G ゼロ」を迎えつつあるとされた。第二次トランプ政権の誕生により、正にこうした予言が現実になりつつある。「G ゼロ」の背景には、東西冷 戦終結後から進み始めたグローバリゼーションの行き過ぎもあったとの指摘もある。(出所)Ian Bremmer(2012)” Every Nation for Itself: Winners and Losers in a G-Zero World”

[7] 中世の封建領主(フランス語でシニョール、Seignior)が額面より安い費用でコインを鋳造し、その差額を財政収入としていたことに由来している。通貨が信任されている限りは、シニョリッジの効果はある。 現代では政府の発行する貨幣(硬貨)について、製造費用と額面との差額は政府の貨幣発行益となっている。一方で中央銀行が銀行券を発行することによって得られるシニョリッジは、銀行券発行の対価として買い入れた手形や国債から得られる利息であり、銀行券の製造コストと額面の差額ではない。これは政府の発行する貨幣との大きな違いである。銀行券は中央銀行にとって一種の約束手形であり、バランスシート上も負債勘定に計上されるものであるところから、このような違いが生じる。

[8] 「ニクソンショック(Nixon Shock)」は、2種類ある。1971年にアメリカ合衆国のリチャード・ニクソン大統領が電撃的に発表した、既存の世界秩序を変革する2つの大きな方針転換を言う。当初は1番目のもの(7月15日のショック)を指し、(8月15日の)2番目のものは「ドル・ショック」と言われていた。その後、後者もニクソン・ショックと呼ばれることが多くなり、両者を併せて「2つのニクソン・ショック」と呼ばれることもある。第1次ニクソン・ショック(ニクソン訪中宣言)は、1971年7月15日に発表された。ニクソン大統領の中華人民共和国への訪問を予告する宣言から、翌1972年2月の実際の北京訪問に至る『新しい外交政策』をいう。第2次ニクソン・ショック(ドル・ショック)は、1971年8月15日に発表された、米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終結を告げた新しい経済政策をいう。

[9] 岩井克人(2025)「基軸通貨ドルと国際秩序」(外交専門誌『外交』Vol.90)

[10] 高坂正堯profile(1934-1996)昭和9年京都生れ。京都大学法学部卒。昭和38年に発表した「現実主義者の平和論」が、当時の論壇に多大な衝撃を与えた。昭和46年、京都大学教授に就任。著書に吉野作造賞を受賞した『古典外交の成熟と崩壊』や、『宰相吉田茂』『海洋国家日本の構想』『世界史の中から考える』などがある。また、平和安全保障研究所理事長、ロンドン国際戦略研究所理事や中曾根首相の私的諮問機関「平和問題研究会」の座長もつとめた。平成8年没。