冷戦下のチェコスロバキアのプラハの春を題材にしたミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ(The Unbearable Lightness of Being)』で、写真家テレーザが「私にとって人生は重いものなのに、あなたにとっては軽い。私はその軽さに耐えられない。」と、脳外科医の夫トマシュに手紙を残して、ひとりプラハへと帰っていくシーンがある。

いまや、政治家にとって、市井の人々のかけがえのない命や人生、家族の絆やささやかな団欒そのものが、とても軽いものになってしまっている。政治の本義を否定するような深刻な事態であるはずなのに。この政治と言う存在の耐えられない軽さに、人々は絶望するしかないのか。国民は、テレーザのように置手紙を置いて国家を去るわけにもいかないのに。

はたして、ウクライナ戦争によって明らかになった危機の本質とその教訓は、何なのか。そこに垣間見れた政治と言う存在の耐えられない軽さの本質は何なのか。何のための国家なのか。どうして、無辜な市井の人々が、納得のいかないまま命を奪われ、家庭を崩壊され、故郷を追われるという不条理に耐えなければならないのか。まったく不可解である。

先日12月22日、米国バイデン大統領は、首都ワシントンを訪れているウクライナのゼレンスキー大統領と首脳会談を行い、徹底して軍事支援継続をすることを強調した。方や、ロシアのプーチン大統領は、新型ICBM(複数の核弾頭を搭載できる大陸間弾道ミサイル)を近く実戦配備する考えを明らかにした。残念ながら、現下のウクライナ戦争の長期化は、不可避な状況にある。為政者は、誰のために、何のために、政治をしているのだろうか。

現下の戦争の背景には、大国間の信頼醸成の欠如がある。外交だけで戦争を防ぐことはできないと多くの識者は言うが、けだし、信頼醸成の外交なしに戦争を防ぐことはまたできないことも事実である。米国とロシアとの戦争が始まったら、核応酬を伴う世界戦争に発展する危険があることは自明だ。戦争を防ぐためには、世界戦争のリスクに怯えながら軍事力を前面に押し出す抑止に頼るか、戦争回避のための粘り強い外交を模索するかの2択択一しかない。これは、ロシア、ウクライナ両国の問題ではなく、人類全体の選択の問題である。

その判断は、国家の、そして為政者の人間としての格が問われているのだと思う。いかに、国民のかけがえのない命や人生、家族の絆やささやかな団欒そのものを護り通すことに真摯に向き合っているか、自身の自尊心や保身、大国の面子や経済的な損得勘定ではなく、いかに、1人の人間として、この歴史的判断の局面に向き合っているかが、問われているのだ。このままでは、ウクライナ戦争は長期化しnever ending storyとなるであろう。喜ぶのは、悍ましい軍産複合体の死の商人たちだけだ。不毛なcat-and-mouse game(いたちごっこ)で、ウクライナのみならず、ロシア国民も、世界中の人類も、誰も幸福にはならない。

ただ1つ自明なことがある。戦争終結は、ロシア、ウクライナ両国が相互に脅威を極小化し、歴史的な紛争要因を解消する方向で合意することが必須不可欠であるという事だ。さもなければ、戦争の終わりが次の戦争の火種になるだけで、平和の到来は不可能だ。きりがないのである。どちらから完全勝利しない限り戦争終結はありえないとの議論もある。しかし、戦争の終結にとって重要なのは、ウクライナの戦闘における勝敗ではない。ウクライナ・ロシア双方の信頼回復である。それは不可能だと言うが、そのような平和を実現することなくして国際社会にとっての「勝利」はないのだ。

いまや、コロナ禍の気候危機時代に、我々人類は生きている。お互いに人類同士で、醜い殺し合いをしている暇なんてないはずである。本来、人類の敵は、気候危機であって、ロシアでもウクライナでも米国でもないはずである。いま不毛に大量消費している軍備兵器予算をすべて気候危機等地球環境対策に転嫁すべきだ。ミサイルや戦闘機を作るお金で、驚くほど多くの風力発電設備や太陽光発電設備や地熱発電設備を新築できるのである。どちらが、人類にとって賢い選択かは、小学生でもわかることである。